( 作家名:矢野橋村 / 作品名:紅富士 )
大正から昭和にかけて活躍した矢野橋村は南画界の重鎮でした。
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矢野橋村(やのきょうそん)は明治23年(1890年)に愛媛県越智郡(現今治市)に生まれました。
本名は一智(かずとも)といい、「橋村」と号しましたが他にも「橋村子明」「知道人」「古心庵」「大来山人」などの号を用いています。
1907年18歳で大阪へ転居するも作業中事故のため左手首を切断してしまい、事故後は画家の道に進むことを決意。20歳で南画家・永松春洋のもとを訪れ門弟となり画道に励みました。
矢野は右腕一本で当時衰退の一途を辿っていた南画(中国発祥の絵画)に苦心しながらも挑み続けた末、1914年25歳で文展初入選を飾ると以来毎年入選するようになりました。
1921年には日本南画院設立に尽力し、創立同人として活動。
また、1924年に福岡青嵐や直木三十五らと私立大阪美術学校を設立し校長として戦争で閉校になるまでの約20年間後進の指導に励みました。
1928年帝展出品の「幕色蒼々」が特選を獲得し1933年に帝展審査員に推挙された他、日本美術協会等の美術団体の設立に携わるなど日本美術会の発展に大きく寄与しました。さらに矢野は挿絵画家としても活躍しており、新聞や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵を担当していたことでも知られています。
第二次世界大戦後は日展、日本南画院を中心に活躍するも1965年脳出血のため74歳で死去し同日付で従五位・勲四等瑞宝章が贈られました。
橋村は元、明、清の中国絵画に影響を受けており、作風やモチーフ、構図などはそれらの伝統を遵守しています。
中国絵画の「南画」とは明時代の画家が禅の南北二宗派になぞらえ絵画を職人画家(北宋)と文人画家(南宋)に対比し、比喩したものといわれています。
この南宋画に影響を受けた矢野は伝統的な文人画と評され、湿潤で穏やか風景描写が特徴的です。
今回のお品物でも別号・知道号と記しているように、矢野橋村は「橋村」「橋村子明」「知道人」「古心庵」「大来山人」などの号を用いています。作品にいずれかの号が記入されていましたら矢野橋村の作品である可能性が高いです。
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