( 作家:藤四郎 / 作品名:瀬戸椿窯堀出茶碗 )
< 藤四郎(加藤景正)とは >
藤四郎(別称:加藤景正)(正式名:加藤四郎左衛門景正/号:春慶)
鎌倉時代前期の陶工で瀬戸焼の陶祖といわれていますが、不明な点が多く存在を疑問視する説もある伝説的人物です。
1223年に道元禅師と共に宋へと渡り進んだ陶器製法を学んだ後帰国。陶器に適した良質な土が豊富であった尾張の瀬戸で窯を開いたとされています。
何故存在が疑問視されているのかというと、瀬戸で茶入れが焼かれ始めたのが室町時代であるとされているからです。景正の作品の制作年代と時代のズレが生じてしまいます。
しかし一方で、瀬戸窯で釉薬を用いた陶器が制作されたのは鎌倉時代前期とする報告も上がっているため景正(または景正のモデルとされる人物)が瀬戸焼の開祖であるという可能性も十分にあり得るのです。
< 瀬戸焼とは >
「せともの」という言葉は陶磁器の総称ですが、漢字にすると「瀬戸物」であり瀬戸焼のことを指す言葉でもあります。焼き物の産地として日本最大の土地として有名な瀬戸。
瀬戸焼の特徴は釉薬が多彩なこと、そして陶器・磁器の両方を生産していることです。
なぜ瀬戸が 陶器・磁器の生産をしているのか。
焼物の歴史は古く、古墳時代から始まり鎌倉時代に中国から施釉陶器の技法が伝わり瀬戸焼が始まったと言われています。
ここから瀬戸では本格的な陶器生産が始まり、釉薬をかけた陶器は日本全土探せど瀬戸のみで大きな強みでした。
桃山時代の茶の湯文化と共に隆盛を誇り、「黄瀬戸」「瀬戸黒」「志野」「織部」など瀬戸の特色ある茶器が多く生産され、日用品も作られるようになりました。
瀬戸焼の素朴で独特の味わいが多くの茶人に愛され、陶器市場で強い優位性を誇っていた瀬戸焼ですが江戸時代に入ると状況は一転。
備前の有田焼が日本で唯一の磁器生産を始めたことにより瀬戸焼の優位性が失われ窮地に立たされていまいます。
そこで、加藤民吉という瀬戸の陶工が有田で磁器の技術を学ぶ密命を受けます。
見事瀬戸まで有田の技術を持ち帰った加藤民吉の指導のもと磁器生産が本格化。見事衰退の危機を脱した瀬戸の焼き物は旧来の陶器を「本業焼」、磁器を「新製焼」と呼び分けるようになりました。
明治時代では海外にも多く輸出されるようになり伝統的な上質な陶磁器は現在まで発展したのです。
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