旺盛な創作活動で版画家、陶芸家、小説家、映画監督、タレントなど幅広く活動し、国内外で高く評価されている作家です。
今回ご紹介する作品は池田満寿夫の陶芸作品であるブロンズの花器『銀糸』です。
独自の感性と手法で多種多様な表現に挑んだ池田満寿夫ですが、陶芸作品も独創性に溢れた存在感のある作品が数多く作られました。
陶芸作品の評価は高く、版画作品と同等かそれ以上の出来と評されていたようです。
そんな池田満寿夫の陶芸作品をお持ちではないでしょうか。
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略歴
池田満寿夫は1934年に旧満州国奉天(現・瀋陽)市に生まれました。第二次世界大戦後の1945年に長野県長野市へと住居を移し、18歳で上京し東京藝術大学を3度受験するも失敗。
それからは路上などで似顔絵を描き生計をたてつつ制作に取り組む日々を送っていました。
そして洋画家・瑛九のすすめで版画を独学で始めます。
このことが転機となり1960年に東京国際版画ビエンナーレへ出品すると文部大臣賞を受賞し、隔年開催のこの東京国際版画ビエンナーレ展で3回連続受賞。
これを皮切りに1965年にはニューヨーク近代美術館で初の個展「Prints of MASUO IKEDA」を開催し、翌年1966年 32歳でヴェネツィア・ビエンナーレでは版画部門で大賞を受賞するなど国内外で高く評価されました。
1967年に芸術選奨文部大臣賞を受賞し、池田は海外へ制作拠点を移し版画家の枠を超えて池田の初の小説作品『エーゲ海に捧ぐ』で1977年に芥川賞を受賞しました。
翌年1978年に池田の脚本・監督で自身の小説作品『エーゲ海に捧ぐ』を映画化し、映画作品でも大きな反響を得ました。
日本へ帰国した1983年頃から陶芸家としても活動を始めブロンズ制作、舞台演出、写真など様々な分野で活躍しマルチな才能を発揮しました。晩年は陶芸制作に没頭していた池田は陶芸から再び油絵の制作への熱意を傾けた半年後1997年に63歳で逝去。
制作意欲旺盛な池田は様々な分野へ関心を向け、新しい技法にも積極的に挑戦していたため作風も年代により変化しています。中でも版画と同等の情熱をかたむけていたといわれる陶芸作品には他の作品とはとりわけ違った色を見せています。
絵画を製作の軸としていた時期は西洋美術史に傾倒していた池田ですが、陶芸を始めてからその芸術思考は変化してゆきました。
日本土器や陶器に関心を移し陶芸を始めるようになると、官能的と評された池田の作風は次第に宗教的な色を見せ始めるようになったのです。
インスピレーションを重視する池田の理想とするスタイルであった陶芸にのめり込んでいった池田はその制作方法も非常にユニークなものでした。縄文野焼きから日本回帰した池田はまず、若手陶芸家のアシスタントにろくろで皿や壺などを作らせ池田がそれらを歪めガス窯や電気釜で焼成しました。しかし、ガス窯や電気窯で焼成された作品は釉薬の発色が悪く池田は自身の作品に納得がいきませんでした。
1993年に増穂登り窯を八方から薪入れできるよう考案した「満寿夫八方窯」を開窯すると作風が変化します。
薪焼成により古代以来の絶妙な色合いや表情が気に入った池田は、この窯で制作を続けることを決意したようです。この窯では池田陶芸の代表作である『般若心経』シリーズと『古代幻視』シリーズが生まれ、宗教的な色を持ち始めました。
ガス窯時代にはろくろで制作していましたが、この満寿夫八方窯からは手びねりで大型の作品を制作を始めるようになります。そしてつるりとした滑らかな肌地よりも土味の残る焼き味が特徴的です。
また、全ての陶芸作品は『破壊の美学』をもち、あえて壊れるように制作されています。
その生涯を情熱的に生きた池田満寿夫の陶芸作品には武骨で力強い印象が受けます。そして多彩な才能を発揮した池田満寿夫はその反面、正当な評価を受けにくい作家です。池田満寿夫の作品のお買取り実績豊富な いわの美術 では専門の知識を持った査定員がお品物を拝見させていただきますのでご安心ください。
お買取りの際に重要になるのが、付属品の有無です。箱や鑑定書など全てそろった状態ですと高額でのお買取りが見込めます。もちろん、付属品のない場合もお買取りさせていただきますのでご安心ください。
晩年の作品は版画作品の評価と同等かそれ以上と評されている池田満寿夫の陶芸作品をお持ちではないでしょうか。ご処分をお考えのお品物がございましたらぜひ いわの美術 にお譲りください。