作家 | 近衛信尋 |
箱書 | 堀江知彦 |
種類 | 掛軸 |
大きさ |
作品:24cm×17cm/軸装:136×34 |
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近衛信尋は江戸時代前期である慶長4年(1599)に御陽成天皇の第四子として生まれ、母の実家である近衛家の養子となり、後に近衛家当主、藤氏長者(藤原氏一族全体の氏長者)となった人物です。
内大臣、左大臣を経て24歳で公家の最高位である従一位関白に補せられ氏長者となります。
文学や学問を好み、非常に優れた才能を発揮していたことでも知られています。
実母の兄である義父・近衛信尹や元関白の義祖父・近衛前久らが、上杉謙信や織田信長との武家との交流が深かったことから武家社会にも精通していましたが、信尋は極めて温厚で穏やかな人柄であったため政争などの問題などはなかったようです。
書道を寛永の三筆(本阿弥光悦・松花堂昭乗)に数えられた義父・近衛信尹に学び、能書家として高く評価されていました。
さらに茶道を吉田重然に学び連歌や画も巧みで、実兄の後水尾天皇や他皇族・公家と共に宮廷文化や文芸活動の中心人物として励んでいました。
後に出家して応山と号した文化人の信尋ですが、近衛信尋といえば六条三筋町(後に島原へ移転)で最高位の遊女・吉野太夫を豪商・灰屋紹益と競った恋愛話も有名です。
吉野太夫は美しく芸道にも精通していた才色兼備として国内のみならず「東の林羅山と西の吉野太夫」と明にまでその名が知れ渡る程の高名な遊女でした。
そして灰屋紹益は京都の豪商で信尋と同格の文化人であったといわれ、高貴な身分の信尋でしたが六条三筋町一の太夫といわれた吉野太夫を身請けできるかは懐事情に依るところも大きく、金銭的余裕のあった灰屋紹益に軍配が上がりました。後に吉野太夫は紹益に身請けされ、信尋は酷く落ち込んだというエピソードが残っています。
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