作家名 | 清水公照 |
作品名 | 山呼萬歳聲 |
種類 | 一行書 |
■ 作品紹介
こちらの作品は奈良の東大寺の住職を務めた清水公照の一行書です。清水公照は独特の味わい深い書画や陶芸作品で美術家としての名を広めました。中でも「泥仏」と名付けられた穏やかな顔をした仏様の焼物などが代表的です。軽妙洒脱で自由闊達な作風が高い人気を誇っています。今回ご紹介している清水公照の書は力強い筆使いで「山呼萬歳聲」(やまはよぶ ばんぜいのこえ)と書かれています。「山呼萬歳聲」とは漢の武帝の故事に由来しており、以下がその故事です。“翌日親登嵩高、御史乘屬、在廟旁吏卒咸聞呼萬歳者三”…漢の武帝が元封1年(紀元前110年)の正月に河南省の嵩山に登り、山の神を祭り、国家の鎮護を祈念すると、臣民一同が「万歳」と叫びました。それがあたりの山々にこだまして、人だけでなくあたかも森羅万象が「万歳万歳万歳」と三度叫んでいるようだった。というお話しです。万歳三唱の由来もこの故事からきていると言われています。新年などのおめでたい席で掛けられる書で、縁起がいい為高い人気があります。お手元にご売却をお考えのお品物がございましたら
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■ 清水公照の略歴
清水公照は大乗仏教の宗派の一つである華厳宗の管長を務め、華厳宗大本山・大寺院東大寺の第207、第208世別当を務めた僧侶です。
清水公照(本名:清水睦治)は1911年に兵庫県飾磨郡曽左村(現在の姫路市)に生まれました。
16歳で東大寺塔頭宝厳院に入寺し、父・清水公俊のもと下僧:公照と名乗るようになりました。
この頃から筆や硯に興味を持っていた公照は少しずつ親しむようになり、後の美術家としての素地が築かれていきました。
そして、1933年に龍谷大学文学部仏教学科で華厳宗を学び同校を卒業しています。
その後は公照たっての強い希望により、臨済宗大本山である京都の天龍寺管長・関精拙のもとで4年間禅を学び、何度かの兵役を挟みながらも1945年に出征先の中国で終戦を迎えました。
1946年に帰国した後、東大寺塔頭宝厳院住職に就任しています。
さらにその翌年に東大寺学園の前身である青々中学校を創設し、校長と書道教師を兼任したりと指導者として活躍しています。
その後も東大寺勧学院院長、東大寺学園幼稚園園長、女子学院院長に就任するなど学校運営に力を入れていました。
そして東大寺学園幼稚園の園長に就任した52歳頃に、園児の作る紙粘土細工に着想を得て公照の代表的陶芸作品である「泥仏」が生まれました。
1975年には華厳宗管長と東大寺第207世別当に就任し、1974年から始まった東大寺大仏殿の「明治大修理」から約70年ぶりの大規模修理である「昭和大修理」の総指揮を引き継ぎます。
総工費38億円と7年の歳月をかけた大修理を成し遂げるために資金集めに東奔西走しながら、全国各地の窯元で陶芸を学び、この頃から毎日絵日記をつけるなど忙しいながらも充実した日々を送っていたようです。
1978年に第208世別当に再任し、2期に渡って指揮した全ての工期を終え、昭和大修理を成し遂げた公照は1981年で引退するまで管長としての職務を務めあげました。
大役を終え東大寺別当を引退し宝厳院長老となった公照は、これまでの功績が認められ仏教伝道文化賞を授与されています。
その後もテレビ出演、講演活動、揮毫、書画、陶芸作品の制作などにも精力的に取り組み、井上靖や平谷郁夫らとボロブドゥールを旅するなど美術家との交流も深めています。
平成元年には公照作品が多く寄贈された姫路市書写の里・美術工芸館が開館し、作品が常設で展示されています。公照は当館の名誉館長に就任しましたが、1999年に遷化しました。
清水公照は主に書画や陶芸作品で広く知られており根強い人気があります。
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