木村武山の 『観音』 お買取り強化中です。【2019年買取・新着情報】

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新着情報

木村武山の 『観音』 お買取り強化中です。

2019.11.17

 

 



左の作品は、坐像図。

右の作品は、立像図



どちらも同じ『観音像』です。

 

 



この作品には、繧繝彩色(うんげんさいしき)と言う技法が使われており、

1つの系統の色を淡い色から、濃い色へと変化させて描く場合に、

ぼかしによらず数段階に分けて順次濃淡をつけていく方法です。

これが色の組合せの原則と結びついて、中国唐時代に完成し、日本では奈良時代以降に普及、装飾に用いられた技法となります。


      写真の作品は以前、いわの美術でお買取りさせて頂いたお品です。

      武山は「仏画の武山」と称されるほど仏画に優れていました。

 

 茨城県笠間市出身の日本画家、木村武山は、

『阿房劫火』が、第1回文部省美術展覧会で入賞し、日本画家第一人者の地位を築いた作家です。


 ◇生い立ち

 

 明治9年(1876年)-昭和17年(1942年)


 茨城県笠間生まれの木村武山は本名を信太郎と言い旧笠間藩士、

 木村信義の長男として生まれます。
 自分の子に絵描きの才能があると気付いた父親は、わずか3歳の時から絵を習わせます。

 同じ町に住んでいた、南画家、桜井華陵に絵を学んだことがキッカケで、

 明治24(1891年)、東京美術学校(現:東京芸術大学)へと進学しました。


 この美術学校で当時校長をしていた岡倉天心と出会い、本格的な指導を受け、

 明治30年(1897年)に、中尊寺金色堂の修復作業を国から任されることになり、武山は助手

 として作業へ参加をします。名宝を目の前に接する機会に恵まれ、後々、上段にも記載した

 『仏画の武山』と称される事となるのです。


 明治31(1898年)7月、美術学校長の職を退いた岡倉天心が、谷中初音町に研究所を建設し、

 同年10月に落成、開院した日本美術院において展覧会を開きます。

 すでに画の技術を上げていた武山は、この展覧会に作品を出品し高い評価を受けました。

 明治39(1906年)美術院が、五浦(北茨城市)に移転することとなり、

 武山も、横山大観、下村観山、菱田春草と共に五浦に引っ越してきます。

 武山の代表作の多くは、この五浦時代に描かれており、後半期の画業の主流となる仏画も

 並行して描き始めたと言われています。


 画家としての名声を上げた武山でしたが、昭和12(1937年)に、脳出血で病に倒れます。

 武山の利き手は右手でしたが、病のせいで、この画家としての生命というべき

 右手が使えなくなってしまうのです。

 本来、絶望してしまうところですが、この時武山は、

   『右手の自由は失ったが、まだ左手がある。左手でも絵は描いてみせる』

 と、絵筆を左手に持ちかえ、猛烈な訓練の元、復活をする事になります。


 『左武山』の異名を聞いた事がある方も、絵画好きの方はいらっしゃるかもしれませんが、

 こう呼ばれたのには、困難な状況下におかれても、制作意欲を発揮し、作品を描き上げる事に

 執念を燃やしたからこそのなのです。   

 晩年、笠間にある大日堂(御仏堂の内壁画の主要部はすべて武山が描いたそうです)

 壁画に情熱を捧げていましたが、その完成を見ることはなく、

 昭和17(1942年)、喘息のため67歳で死去しました。


木村武山 の作品をお買取りいたします。

木村武山は、非常に人気の高い作家です。

中古市場でも大変人気があります。


人々に広く愛されたその作品は、個人所蔵のものが多く、

なかなか市場には出回らない事もあり、

希少価値がございます。


お手持ちの木村武山の作品のご売却をお考えの場合は、

作品の価値に詳しく、買取経験が豊富な ”いわの美術” まで是非ご連絡下さいませ。


WEBLINE電話での対応が可能です。

お客様が納得された場合のみお買取りしておりますので、

初めてのお客様もお気軽にお問い合わせ下さいね。


スタッフ一同ご連絡を心よりお待ちしております。

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