左の作品は、坐像図。
右の作品は、立像図。
どちらも同じ『観音像』です。
この作品には、繧繝彩色(うんげんさいしき)と言う技法が使われており、
1つの系統の色を淡い色から、濃い色へと変化させて描く場合に、
ぼかしによらず数段階に分けて順次濃淡をつけていく方法です。
これが色の組合せの原則と結びついて、中国唐時代に完成し、日本では奈良時代以降に普及、装飾に用いられた技法となります。
写真の作品は以前、いわの美術でお買取りさせて頂いたお品です。
武山は「仏画の武山」と称されるほど仏画に優れていました。
茨城県笠間市出身の日本画家、木村武山は、
『阿房劫火』が、第1回文部省美術展覧会で入賞し、日本画家第一人者の地位を築いた作家です。
明治9年(1876年)-昭和17年(1942年)
茨城県笠間生まれの木村武山は本名を信太郎と言い旧笠間藩士、
木村信義の長男として生まれます。
自分の子に絵描きの才能があると気付いた父親は、わずか3歳の時から絵を習わせます。
同じ町に住んでいた、南画家、桜井華陵に絵を学んだことがキッカケで、
明治24(1891年)、東京美術学校(現:東京芸術大学)へと進学しました。
この美術学校で当時校長をしていた岡倉天心と出会い、本格的な指導を受け、
明治30年(1897年)に、中尊寺金色堂の修復作業を国から任されることになり、武山は助手
として作業へ参加をします。名宝を目の前に接する機会に恵まれ、後々、上段にも記載した
『仏画の武山』と称される事となるのです。
明治31(1898年)7月、美術学校長の職を退いた岡倉天心が、谷中初音町に研究所を建設し、
同年10月に落成、開院した日本美術院において展覧会を開きます。
すでに画の技術を上げていた武山は、この展覧会に作品を出品し高い評価を受けました。
明治39(1906年)美術院が、五浦(北茨城市)に移転することとなり、
武山も、横山大観、下村観山、菱田春草と共に五浦に引っ越してきます。
武山の代表作の多くは、この五浦時代に描かれており、後半期の画業の主流となる仏画も
並行して描き始めたと言われています。
画家としての名声を上げた武山でしたが、昭和12(1937年)に、脳出血で病に倒れます。
武山の利き手は右手でしたが、病のせいで、この画家としての生命というべき
右手が使えなくなってしまうのです。
本来、絶望してしまうところですが、この時武山は、
『右手の自由は失ったが、まだ左手がある。左手でも絵は描いてみせる』
と、絵筆を左手に持ちかえ、猛烈な訓練の元、復活をする事になります。
『左武山』の異名を聞いた事がある方も、絵画好きの方はいらっしゃるかもしれませんが、
こう呼ばれたのには、困難な状況下におかれても、制作意欲を発揮し、作品を描き上げる事に
執念を燃やしたからこその名なのです。
晩年、笠間にある大日堂(御仏堂の内壁画の主要部はすべて武山が描いたそうです)
壁画に情熱を捧げていましたが、その完成を見ることはなく、
昭和17(1942年)、喘息のため67歳で死去しました。