弊社いわの美術では、俳人・画家としても活躍した与謝蕪村の作品をお買取りしております。
与謝蕪村は1716年(享保元年)に摂津国東成群毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)という場所で生まれます。
生まれた場所の情報はあるものの、両親や幼少期の頃の資料は殆どなく、育った環境について様々な噂が流れていますが、確かな資料があるのは与謝蕪村が17歳以降となります。
17歳頃に両親を亡くした事で財産も亡くなった与謝蕪村は、自力での生活を目指して栄えている町、江戸へと下りました。
そこで、江戸時代に活躍した俳人の早野巴人に出会い師事しますが、両親も家も失っている与謝蕪村は住む家がない事を伝えると、早野巴人の家に仮住まいさせてもらえる事となります。
そこで早野巴人から俳句を学ぶにつれて、俳句の奥深さや楽しさを感じ、また「奥の細道」でも有名な松尾芭蕉は師である早野巴人の師匠でもあった為、松尾芭蕉の事も自然と敬い慕っていたそうです。
与謝蕪村が27歳の時に師である早野巴人が亡くなり、それにより住む家が無くなったので、早野巴人の高弟であった俳人の砂岡雁宕の元で一時的に住まわせてもらいます。
その後は、尊敬してやまない松尾芭蕉の足跡を辿りながら放浪の旅へと出掛けるのです。
松尾芭蕉の足跡を辿り東北に行ったり、師である早野巴人の故郷に立ち寄るなど約10年程放浪の旅を続けていた与謝蕪村は、幼い頃から好きだった絵を描いては泊まらせてもらった宿に宿泊代として置いて行ったそうです。
宿代として絵を描いた10年は与謝蕪村にとって絵の才能を伸ばす修行にもなり、後に俳句だけではなく画家として絵も描くようになります。
修行を終えた与謝蕪村は京都に住居を構え、結婚・子供と順風満帆な生活を送り、俳句や絵画など数多くの作品を製作しました。
また、55歳では師である早野巴人が名乗っていた夜半亭を引継ぎ「夜半亭二世」と名乗り、1779年に六曲一隻程の大きさの「奥の細道図屏風」を製作しました。
この作品は、松尾芭蕉の「奥の細道」の原文に絵画を取り入れた俳画で、与謝蕪村が得意とした絵を描いて製作された作品です。
松尾芭蕉を敬い慕う与謝蕪村の気持ちがこの作品に全て現れているように感じます。
数々の作品を製作した与謝蕪村ですが、68歳という若さでこの世を去りました。
与謝蕪村は、衰えていた俳諧を再び江戸で繁栄させた事で、松尾芭蕉や小林一茶と並び江戸俳諧の巨匠の1人と言われ、また、俳句と絵を合わせた俳画を完成させた人物としても名高いですが、ここまで評価されるようになったのは明治になってからです。
俳人・正岡子規の書籍「俳人蕪村」や正岡子規の門人の内藤鳴雪と正岡子規の書籍「蕪村句集講義」、日本近代詩の父と称されている詩人・萩原朔太郎の書籍「郷愁の詩人・与謝蕪村」が世に出るまで、与謝蕪村の名前は多くの人に知られる事がありませんでした。
書籍が世に出てから与謝蕪村の名前が世の中に知れ渡り、作品も評価されるようになりました。
ですが与謝蕪村が亡くなったのは江戸後期、書籍が世に出たのが明治後期なので、自分が亡くなり100年以上経ってから慕っていた松尾芭蕉と同じ江戸俳諧の巨匠の1人に選ばれるなど想像もしていなかった事でしょう。
与謝蕪村が描く作品は、どれも写実的で特徴をしっかりと押さえ描かれています。
俳句の才能もありますが、絵画も素晴らしい作品が多く、現在では国宝や重要無形文化財に指定されている物もございます。
弊社いわの美術では、俳人の与謝蕪村の作品をお買取り致しております。
与謝蕪村は、放浪の旅で泊まった宿に宿代として絵を描いて置いていっていますので、先代の方が宿を経営されていたお宅などでは、与謝蕪村の作品が出てくるかもしれません。
蔵の整理・解体・引っ越し・遺品整理・生前整理などで与謝蕪村の作品が出てきましたら、まずはお問い合わせ下さい。
与謝蕪村は江戸時代に活躍した方なので、残されている作品はほんのわずかだと思われます。また、作品の多くが国宝や無形文化財に指定されていますので残されている数は少ないでしょう。
ですが、まだ発見されていない与謝蕪村の作品が家の中から見つかるかもしれませんので、古い掛軸や巻物、書物を見つけましたら、処分する前に一度お問い合わせ下さい。
また、与謝蕪村の作品以外にも様々な作品をお買取りしております。
与謝蕪村と並び江戸俳諧の巨匠と言われた松尾芭蕉や小林一茶、与謝蕪村の存在を世の中に広めた正岡子規、江戸千家を創設した茶人の川上不白などの掛軸や屏風、書状などもお買取り致しております。
その他にもお茶道具や絵画、書道具、仏像、ブロンズ像、洋食器、ガラス工芸品など様々なお品物をお買取り致しております。
ご売却お考えのお品物がございましたら、お気軽にいわの美術までお問い合わせ下さい