歌川芳虎は、横浜絵の第一人者と言われている歌川貞秀と並び活躍した絵師で、11歳の頃歌川国芳に弟子入りしました。
この頃から絵師としての生まれ持った才能を発揮し、師の歌川国芳が得意としていた武者絵が特に上手く、それ以外にも役者絵で大作を作られています。
1836年には、本の挿絵も手がけるなど様々な作品を手掛けた歌川芳虎ですが、1849年に描いた道外武者御代の若餅がキッカケで大事件を起こしてしまうのです。
道外武者御代の若餅という作品は、一見すると武士が餅つきをしているだけの、のどかな絵にしか見えません。
ですが実際は、杵を振りかざしている織田信長、臼のところにいるのは明智光秀、お餅をこねているお猿は豊臣秀吉、そしていちばん奥で餅ができるのを待っているのが徳川家康だという構図になっているのです。
この作品は、「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」という徳川家康をからかうような歌が広まり、これを聞いた歌川芳虎が絵にしてしまった物です。
意味は、「織田信長・明智光秀・豊臣秀吉が苦労して天下を統一したが、徳川家康は楽して天下を横取りした」という大変遺憾な内容でした。
江戸時代はもちろん徳川家が統治している時代です。こんな時代に徳川家の人間をからかうような絵を出す事は自殺行為にあたります。
出版前に検品する人物が隠された意味に気づかず出版してしまった事から大事件となり、歌川芳虎は50日間両手に鎖を付けたまま生活する「手鎖50日」の刑に処されます。
その後20代の頃に歌川芳虎は独立、この頃黒船が来航していてそれに興味を持ったのか、蒸気機関車など西洋の文化を取り入れた作品を好んで描き進めました。
1858年には師の歌川国芳から破門されますが、作品制作は衰える事なく1867年歌川貞秀と共に合作作品「浮世絵画帳」では美人画を描き、それ以外にも錦絵や本の挿絵など幅広く活躍します。
その結果、人気絵師第二位に選ばれるなど功績・実力ともに認められ、横浜絵や開化絵など数多く描き続けました。
現在の資料ですと、1882年5月創刊の「楠公一代記」と「清正一代記」と言う本の挿絵を描いた記述は残っているのですが、それ以降の作品が見つかっておらず、いつ亡くなったのかも分からない状態です。
歌川芳虎の作品
歌川芳虎は、武者絵や役者絵、大首絵、美人画、相撲絵、横浜絵、錦絵、開化絵など幅広く作品を描いています。
また、歌川国芳に弟子後1842年に5枚組の錦絵「信州川中嶋大合戦」という作品を描いているのですが、この作品は弟子入りしてから4年後に描かれた作品となり、記述通り弟子入りしたのが11歳とすると15歳で描いた事になります。
歌川芳虎の経歴は、詳しい記述が残されていないのでわかりませんが、15歳で「信州川中嶋大合戦」という作品を描いたとなると生まれ持った才能があったのではないでしょうか。
また、歌川芳虎は歌川国芳の弟子の中で相撲絵を最も多く描きました。
こちらの画像の作品も相撲絵で、お相撲さんの体つきや筋肉など正確に描かれている素晴らしい作品です。
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歌川芳虎の作品では、巻物や1枚の作品、数枚合わせて1作品になるお品物、掛軸などもございます。
人気の作品や状態によって査定額は異なりますが、数枚~数十枚合わせて1作品になる大作は、全て揃っている状態ですと高価買取が見込めます。
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渓斎英泉・歌川広重・鳥居清忠・水野年方などなど
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