歌川国貞は、本名を角田庄五郎と言い1786年に材木問屋の家に生まれます。
幼い頃から絵を描く事が好きだった歌川国貞は沢山の絵を描き、その実力は周りの大人も認める程でした。
そんな中、浮世絵師である歌川豊国にも才能を認められた歌川国貞は、15歳で歌川豊国の門人となります。
歌川国貞は、歌川豊国に指導を受けながら本格的に浮世絵師としてデビューしたのは22歳の頃でした。
デビュー当時は美人画や役者絵を多数描き、滝沢馬琴の合巻「不老門化粧若水」を初筆、1811年には大当狂言之内という全9枚シリーズの役者絵を製作しましたが、この作品は師である歌川豊国の実力を超える作品となりました。
その後、江戸時代の絵師である英一珪に弟子入りし数多くの作品を描くようになりますが、
江戸後期の大名である水野忠邦が掲げた天保の改革により役者絵や美人画の製作が禁止されてしまいます。
天保の改革が緩和されるまで歌川国貞は絵を描く事を辞めていましたが、水野忠邦が失脚し改革が緩んだと同時に、絵を描きたいという衝動が解放され今まで以上に絵を描く事に集中し、より多彩で繊細な浮世絵を描くようになったのです。
58歳では、師である歌川豊国の三代目を継ぎ、その後も描く手を緩めることなく79歳で亡くなるまで多くの作品を描き続けました。
歌川国貞は、22歳で浮世絵師としてデビューしてから79歳で亡くなる直前まで絵を描き続け、その作品は歴代浮世絵師の中で最も多い一万点以上程にもなる作品量と言われています。
文政時代の後期頃から、猫背で首が太く短く見える猪首スタイルの美人画を良く描くようになり、晩年もそのスタイルを崩しませんでした。
また、歌川広重と合作した「双筆五十三次」や、江戸時代後期の戯作者である柳亭種彦が手掛けた長編合巻「偐紫田舎源氏」の挿絵、「集女八景」など数々の作品を手がけました。
歌川国貞が活躍した時代は、師である歌川豊国や歌川広重、歌川豊重など実力のある浮世絵師が揃っていましたが、その中でも独自の世界観と優れた技量を持つ歌川国貞は、上位を争う実力の持ち主だったそうです。
歌川国芳・喜多川歌麿・葛飾北斎・宮川長春・月岡芳年
古山師政・豊原国周・揚州周延などなど
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浮世絵は本や掛軸に加工されている物、数枚合わせて1つの作品になる物など多数ございます。
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