祥翁宗左は、1818年高倉久田家7代目維妙宗也の子として生まれますが、父親の維妙宗也は翌年亡くなってしまいます。
維妙宗也が亡くなった後、もちろん跡継ぎの話になるのですが、祥翁宗左は生まれて間もない事から跡継ぎは難しいという結論になり、養子を迎え八代目を継がせる事になりました。
その後1825年に高倉久田家7代目の維妙宗也の兄である表千家九代目曠叔宗左が亡くなった事でこちらも跡継ぎの話になったのですが、曠叔宗左の子は若くして亡くなっている為実子がいない状態でした。
その為、曠叔宗左の弟である維妙宗也の子、祥翁宗左に表千家十代目を継がせる事となったのですが、当時祥翁宗左はまだ8歳という異例の若さだったのです。
さすがに若すぎる為反対する者も出たそうですが、跡継ぎがいなければ家系が途切れてしまう為やむなく祥翁宗左を表千家に養子に出す事になりました。
祥翁宗左は表千家に養子に出された翌年、吸江斎という号をもらい正式に表千家十代目として活動する事になります。
表千家十代目という大役を任されたものの、まだ九歳の子供だったので右も左も分からない状態でしたが、曠叔宗左の弟子だった紀州藩・第十代藩主の徳川治宝が祥翁宗左をとても気にかけて支え続けました。
10歳で紀州徳川家に出仕し19歳で紀州藩・第十代藩主の徳川治宝より台子真点前の伝授を受けたそうです。
その後は、掛軸や箱書きなど多数の作品を残し、晩年は隠居して宗旦という名を名乗っていました。
そして9歳というあまりにも若い年齢から表千家十代目を継ぎ、大人の波にのまれながらも立派に十一代目へと代を引き継いだ祥翁宗左は、43歳という若さでこの世を去りました。
祥翁宗左は、幼い頃から書の才能に長けていて、当時の茶人の間ではとても評判が高かったそうです。
掛軸の一行書きや絵賛の作品を得意とし、また祥翁宗左が幼少期の頃後見人として側にいた表千家六代目天然宗左の門人の住山楊甫の箱書きの代筆も行ったと言われています。
永楽保全に焼かせた御庭焼作品などにも祥翁宗左の書付が施されています。
祥翁宗左が残された作品の中には、書や絵賛、自作の茶杓、茶道具の箱書きなど多数のお品物がございます。
自作の作品はもちろんの事、有名な陶芸家が作った作品に箱書きされたお品物は高価買取が期待出来ます。
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