1881年に栃木県の日光市で生まれ、明治・大正・昭和の時代を洋画家・日本画家・歌人・執筆家と多方面にわたり活躍されました。
小杉放菴が15歳の頃、同じ日光に住んでいた日本画家の五百城文哉に絵を習う為弟子入りしますが、この頃から大都会である東京に憧れを抱いていた事が大きな事件へと発展します。
五百城文哉に弟子入りした翌年、東京に行く事が諦めきれなかった小杉放菴は、なんと師に無断で東京に上京してしまうのです。
憧れの東京で新たに絵画の勉強を始めようと白馬会洋画研究所に入所しわくわくしていた小杉放菴でしたが、やはりまだ16歳の子供ですので、都会の空気や白馬会に馴染む事が出来ず帰郷する事となります。
無断で上京してしまった小杉放菴は、叱られるのを覚悟で帰郷しますが、師の五百城文哉は何事もなかったように暖かく出迎えてくれたのです。
まるで家族のように暖かく接してくれる五百城文哉の対応に自分の行いを深く反省した小杉放菴は、以降五百城文哉の元で熱心に絵の勉強に励みます。
18歳になると五百城文哉の許可を得て再度東京に上京し、武士兼洋画家で教育者としても名高い小山正太郎の不同舎に入門、その後太平洋画会に入会し未醒という号で活動します。
22歳になると近時画報社で挿絵や漫画を描き、翌年の日露戦争が始まった時には軍隊と活動を共にする従軍記者として戦地に出向き戦闘画などを描いて戦争の悲惨さを多くの人々に伝えました。
1908年から自身の作品を文展に出品するようになり、第四・第五・第六回展で続けて二等賞を受賞、その後洋画を学ぶためフランスに渡りますが、現地で池大雄の十便図という作品を見た事で日本画の魅力も覚え、帰国後は墨絵も描くようになります。
1922年には仲間とともに春陽会を設立し、号を未醒から改名し放庵という名で活動しました。
44歳では東京大学にある安田講堂の壁画を手掛け、第二次世界大戦中には疎開先の新潟県で独自の水彩画を数多く描きました。
第二次世界大戦で東京の家が焼けてしまった事から、晩年は疎開先の新潟県で暮らし82歳で肺炎の為この世を去りました。
小杉放菴の作品
小杉放菴は明治・大正・昭和の時代に洋画家・歌人・日本画家・随筆家など多方面で活躍された方で、数多くの作品を製作されました。
画家として活動を始めた時は、未醒という号で主に洋画を描いていました。
この時代挿絵や漫画も描いていたのですが、漫画には当時流行していたアール・ヌーヴォー様式を取り入れています。
フランスから帰国後は、フランスで見た池大雄の十便図という作品に影響を受け墨絵を描くようになり、その後放庵という号に改名して活躍しました。
そして日本画家として認められるようになったのは、放菴という号に変えた頃です。
この時代、紙を特注し硯や墨、絵の具などにもこだわり良い品を使っていました。
また、旅行が好きだった小杉放菴は、様々な国でその国の風景を描きながら優れた画材を購入していたそうです。
小杉放菴が購入し集めた画材の一部は、小杉放菴日光記念美術館にて保管されています。
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