1833年に生まれた落合芳幾は、幼い頃から絵を描く事が大好きでよく絵を描いていたそうです。
初めは質屋に奉公していましたが、絵を描く事が辞められずにいたところ、近所に住んでいた浮世絵師の歌川芳兼に誘われて歌川国芳の元に入門させてもらえました。
その後歌川国芳の元で絵を学びながら自身でも作品を描き続け、数年後妻子を持つようになった落合芳幾は、一層画家の仕事に気合が入ります。
そんな幸せ絶頂の中江戸時代後期に起こった安政の大地震により、落合芳幾の妻は倒れてきた建物の下敷きになり亡くなってしまいました。
しかも妻はその時妊娠中で妻と子供両方亡くした悲しみは計り知れないものでしょう。
ですが、そんな状況でも落合芳幾は、「この出来事を書き留めなければならない!」「残さなければならない!」と大地震の現状を浮世絵として描きました。
安政の大地震の現状を描いた作品は、世間の注目を浴び注文が殺到、この作品の製作により
落合芳幾の名は広く知られるようになります。
1857年以降は合巻や挿絵なども製作、師の歌川国芳亡き後は遊女・風俗絵などを数多く描き、幕末から明治初期にかけての浮世絵師の第一人者のひとりとなりました。
1886年には、一年遅れて歌川国芳の弟子となった月岡芳年との競作「英名二十八衆句」という血など残虐な作風が特徴の無残絵を描き話題になりました。
また、浮世絵だけに飽き足らず明治5年に挿絵が入った「東京日日新聞」の発起人となり、以降明治10年まで挿絵画家として活動します。
その後口絵と呼ばれる現在で言う本の表紙の絵を描いたりと功績を残されましたが、72歳でこの世を去りました。
落合芳幾を調べていると必ず一緒に出てくるのが月岡芳年の名です。
落合芳幾と月岡芳年は、歌川国芳の元で修業した先輩後輩の関係にあたるのですが、当時はライバルとしてお互いに火花を散らしていました。
落合芳幾は17歳で弟子入り、月岡芳年は翌年12歳で弟子入りして歌川国芳から絵を学びましたが、歌川国芳は2人の弟子に対してこんな言葉を残しているそうです。
(芳幾は器用に任せて筆を走らせば、画に覇気なく熱血なし、芳年は覇気に富めども不器用なり、芳幾にして芳年の半分覇気あらんか、今の浮世絵師中その右に出る者なからんと)
この言葉を解読すると(落合芳幾は技術はあるが絵の迫力がなく、月岡芳年は絵に迫力はあるが技術が足りない。2人の良い所を合わせれば素晴らしい絵師になる)となります。
師の歌川国芳が残している言葉なので、弟子の2人には届いていないと思いますが、師の気持ちに感ずいてしまった場合は、火花がさらに激しくなった事でしょう。
また、師の歌川国芳が亡くなった時の死に絵と呼ばれる死去を伝えると同時に生前の業績を称えるための絵を落合芳幾が描きました。
この死に絵というのは弟子の中で認められた者だけが描けるものなので、月岡芳年はなぜ落合芳幾が選ばれたのか納得がいかなかったそうです。
そして師の歌川国芳の葬儀の際、月岡芳年が通行の邪魔な所にいたため、落合芳幾が軽く蹴とばしたところ、死に絵の事で苛立っていた月岡芳年は激怒して、落合芳幾を晩年まで恨み続けたそうです。
まるで水と油のような交わらない関係の落合芳幾と月岡芳年でしたが、1866年には「英名二十八衆句」という作品を競作していて、全28枚を半分に分けてそれぞれ作品を描きました。
「英名二十八衆句」という作品は、歌舞伎で刃物を使って争いをする場面を描いたものが多く、凄惨な血の描写が見られます。
ライバルとして戦い続けた落合芳幾と月岡芳年でしたが、月岡芳年が亡くなった時には家に訪問してお悔やみの言葉を述べたという事から、ライバルでありながらも切磋琢磨し合う良い関係だったのではないでしょうか。
弊社いわの美術では、落合芳幾の作品をお買取りしております。
浮世絵は紙なので古い作品ですと破れや虫食い、色褪せ、シミなどが出てくる可能性もございます。
お品物の状態によってはお買取りが難しくなる可能性もございますので将来的に処分を検討している方などは、状態が悪くなる前に早めの処分をオススメ致します。
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買取可能な浮世絵師
宮川長春・豊原国周・葛飾北斎・伊東深水・歌川広重・歌川国貞・歌川国芳
歌川貞秀・岳亭定岡・歌川国直・月岡芳年・名取春仙・河鍋暁斎などなど