中里重利は、1930年十二代中里太郎右衛門の三男として生まれ、一番上の兄は十三代中里太郎右衛門として活躍されました。
幼少の頃父親から轆轤や窯焚きなど徹底して叩き込まれながら育ちますが、有田青年学校で轆轤を教えていた先生の技術を見た中里重利は、父にはないものを感じます。
「先生は父よりも轆轤の技術が格段に違う。やはり職人は体で技術を覚えるものだ」と感じた中里重利は、その後一心不乱に轆轤を回し続け、技術を体に染み込ませていきました。
戦後は社会情勢が不安定で焼物が売れる時代ではなく、食べる物も満足得られない状態でしたので、実家で畑を耕し作物を育て生きていくために必死で畑仕事をしていました。
作陶が出来るようになったのは終戦から3年後の1948年、やっと日本の経済が落ち着いてきた頃日用品の注文が入った事で中里重利は、父の十二代中里太郎右衛門と共に轆轤で作品を数多く制作するようになります。
その後、22歳で自身の製作した作品を日展に出品したところ初入選を果たし、以降様々な展覧会で賞を受賞していきます。
また、これまでの功績が称えられ1966年の日展に出品した「灰釉壷」より審査・鑑査なしでの出品が認められるようになり、中里重利の作品の多くは外務省買い上げとなりました。
その後展覧会の出品や審査員なども経験した中里重利は、43歳で自身の窯「三玄窯」を作り上げます。
三玄窯の名前は、中里重利の代表作「三玄壷」から取ったそうで、その理由は弟子が出来て一緒に作品を製作する際窯の名前を自分の名前にしてしまうと弟子達の作品と分からないからという中里重利の優しさからこのような名前となりました。
窯を作った翌年東京と京都で個展を開催し、以降全国各地で個展を開催するようになります。
1985年には、これまでの功績が称えられ佐賀県芸術文化功労賞を受賞、1996年には佐賀県政功労賞を受賞、2002年では地域文化功労者表彰および文部科学大臣表彰を受けます。
陶芸界に多くの功績と作品を残した中里重利は、2015年84歳でこの世を去りました。
中里重利は、若い頃からペルシャ陶器やエジプト、中国・李朝陶磁器などの発掘調査や美術商との交流の経験から様々な作風の作品を製作しています。
釉薬のかけ方や色合いなど様々な種類があり、唐津焼をベースにして三島や井戸・粉引や朝鮮唐津など作品によって評価が異なります。
また、茶人の方の書付などがありますと高評価でのお買取りが期待出来ます。
中里重利の作品をご売却お考えでしたら、是非いわの美術までお問い合わせ下さい。
十二代中里太郎右衛門・十三代中里太郎右衛門・瀬戸十作・荒川豊蔵・瀬戸毅己
鈴木蔵・清水卯一・加藤唐九郎・河井寛次郎・細川護熙・加藤孝造・尾形乾山
中国の宋・李朝・清時代・景徳鎮などなど