石川県金沢市で江戸時代から代々楽焼の製作を行っている大樋焼本家の十代目大樋長左衛門は、九代大樋長左衛門の長男として1927年に生まれます。
その後、家業を継ぐため東京美術学校で学び、23歳で日展に作品を出品し初入選を果たします。
以降日展に様々な作品を出品し受賞を収め、1967年には十代大樋長左衛門の功績が認められ史上最年少の39歳で日展の審査員を務め、その後45歳・49歳・61歳・70歳・74歳・77歳の各年にも審査委員を務めました。
53歳では現代工芸美術家協会理事に選ばれ、その2年後には第14回の日展で出品した「歩いた道」という題名の花器が文部大臣賞を受賞し、こちらの作品は現在東京国立近代美術館に収蔵されています。
その後60歳で十代大樋長左衛門を襲名し、翌年石川県陶磁協会会長と金沢大学の教授に選ばれ、その翌年には金沢卯辰山工芸工房の工房長になるなど後世の育成にも力を入れました。
後世の育成を行いながら現役で作品制作を進め、展覧会やメディア出演なども多数行い、1995年には現代日本陶磁の秀作アジア巡回展に招待出品されるなど日本にもならず海外でも活躍されます。
その後も展覧会や後世の育成など素晴らしい功績を残された十代大樋長左衛門は、2016年長男に長左衛門を譲り、自身は大樋陶冶斎を名乗り94歳の現在も現役で活躍されています。
初代大樋長左衛門~五代大樋長左衛門
大樋長左衛門は、名門楽家の脇窯として350年続いてきた歴史ある家元で、初代大樋長左衛門が茶碗師として裏千家4代仙叟宗室と同行しその地で楽焼の窯を作った事から始まります。
初代大樋長左衛門は裏千家4代仙叟宗室の指導の元茶道具を製作していた事から、仙叟宗室好みの茶道具が多く、二代大樋長左衛門も仙叟宗室好みを受け継いでいます。
三代大樋長左衛門は初代や二代目の作風に似ているところはあるものの、茶陶らしさが感じられる作品を多く制作しました。
四代大樋長左衛門は伝統を守りつつ自身の表現も取り入れながら作品を製作していき、昔からある飴釉以外にも様々な色彩を試したりと個性的な作陶を行っていきます。
作陶の実力は初代に次ぐ名工とも言われ、また四代大樋長左衛門から加賀藩の陶器御用を勤めました。
五代大樋長左衛門は華やかで安定感のある作品を製作し飴釉以外にも黒釉や白釉を用いています。
五代大樋長左衛門の作品は多くの人々から高評価を得ていまして、その作品の素晴らしさから大樋焼中興の祖と言われ、裏千家11代玄々斎宗室も彼の作品を気に入り多くの書付を残されています。
六代大樋長左衛門~現代
六代大樋長左衛門は、父の五代大樋長左衛門と同じ年に亡くなるという早世だった事からあまり作品は残されていませんでした。
七代大樋長左衛門が活躍した頃はとても苦悩の年で、藩の廃藩に明治維新の混乱が重なり苦しい時代でしたが、歯を食いしばり伝統を守り続け作陶を続けました。
これまで息子が引き継いできた大樋家ですが、七代大樋長左衛門の長男と次男が跡を継がなかった事から、初めて家族ではなく七代大樋長左衛門の弟子が八代目を継ぐ事となります。
八代大樋長左衛門は、七代大樋長左衛門や裏千家13代圓能斎宗室に師事しながら廃藩で廃れた大樋焼を再興させた素晴らしい人物で、彼が居なければ大樋焼は無くなっていたかもしれません。
九代大樋長左衛門は優れた才能を発揮し宮中、大宮御所の茶室用品の御用命を受けたり、工芸技術保存作家の指定や日本工芸会正会員になるなど多くの功績を残します。
自身で考案した黒幕釉という黒釉を二重かけた作品は、絶妙な垂れ具合が高評価を得ています。
そして十代大樋長左衛門へ受け継がれ、現在は十代大樋長左衛門の長男が十一代大樋長左衛門として活躍されています。
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