シャガールは1887年現在のベラルーシにユダヤ系リトアニア人として生まれ、数々の絵画やステンドグラス、また陶芸などに至るまで様々なジャンルの美術品を手掛けたフランスの芸術家です。豊かな色彩感覚から『色の魔術師』や、一人目の妻であるベラをモチーフにした絵画を多く残したことから『愛の画家』とも呼ばれます。同じ激動の時代を生き抜いた巨匠ピカソとは作風は違えども、お互いにライバルとして意識し合う仲だったことも知られています。
シャガールはドイツ語やヘブライ語、ポーランド語、イディッシュ語などが飛び交い 東欧の文化が複雑に入り混じる独特な風土が築かれたヴィテブスクで幼少期を過ごしました。二十歳を過ぎる頃まで過ごしたその土地特有の文化や習慣は画家のその後の作風に大きく影響を与えたと言われています。
美術学校での学びを経て、23歳で初めてパリ留学をしたシャガールはフランス語が話せなかった孤独感から、5年に渡る滞在中はひどいホームシックにかかり、故郷に残し 後に妻となった恋人ベラに対する想いを募らせたと言われます。精神的にはつらい時期でしたが、画家としての活躍は展示会などに出品を続け、当時フランス国内でも人気だったいわゆる『パリ派』と呼ばれる画家たちと交流するうちに、徐々にその評価を高めていきました。
パリから帰国した1914年にベルリンで個展が開かれ、圧倒的な評価をきっかけにシャガールは広く知られるようになります。ドイツにて画家として不動の人気を得たシャガールでしたが、ベラとの結婚式を挙げる為ロシアに一時帰国していた最中に第一次世界大戦が勃発、国境が封鎖されるとロシア国内に留まることを余儀なくされてしまいます。その間にもシャガールは意欲的に制作を続け、中でもその頃の代表作とされるイラスト『魔術師』は、ロシア国内の批評家達からも高い評価を受け、ドイツのみならずロシアでの人気にも繋がりました。
戦争が終わり、1920年代後半になる頃にはヨーロッパのみならず、アメリカでも個展が開催されるようになります。独裁的な政治運動が高まり第二次世界大戦が勃発すると、シャガールは1941年に家族と共にナチスによる迫害を免れるためアメリカに亡命、ニューヨークを安住の地としました。
亡命前からアメリカでの人気を博していたシャガールはMoMAの愛称で知られるニューヨーク近代美術館など主要な美術館で個展が開催されたり、メキシコでの舞台デザインが大絶賛されたりと、活躍の場を世界に拡げました。
しかし戦中の薬不足でろくな看病も出来ぬまま感染症で最愛の妻ベラを亡くしたシャガールは、失意のまま筆を取る事が出来なくなり、1947年パリに戻りフランス国籍を取得します。
再び描けるようになると、記憶に留めておくかのように亡き妻ベラをモデルにした作品を数多く手掛けました。その後、1952年に同じくロシア系ユダヤ人のバーバと再婚。77歳でオペラ劇場の天井画の大作を手掛けるなどし、時代に翻弄されながらも 世界を魅了する巨匠として称えられつつ1985年97歳でパリにてその生涯を閉じました。
1950年パリで制作されたリトグラフ・版画。稀少価値が非常に高く奇跡の存在とまでいわれる作品です。シャガールの作品は絵画を初めて購入する方から長年のコレクターまで幅広い層に人気があるのが特徴で、その独特な色使いは圧倒的な存在感を放ちます。
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