1951年十二代田原陶兵衛の長男として生まれた十三代田原陶兵衛は、本名を田原謙次と言います。
幼い頃から父である十二代田原陶兵衛の作陶姿を見て育ってきた十三代田原陶兵衛は、武蔵野美術大学大学院で芸術を学び、その後2年間佐賀県の唐津市で修業を始め、素晴らしい轆轤の技術を持つ中里重利に師事し陶芸を学んでいきました。
2年間の修行を終えた十三代田原陶兵衛は、故郷の萩市に戻り昭和を代表する美濃焼の陶芸家である荒川豊蔵とともに互窯会を結成させます。
昭和55年に東大寺の落慶を記念して開催された式典には数茶碗を献納、昭和59年には島根県にある田部美術館で行われた大賞茶の湯の造形展にて入選します。
昭和60年には東京日本橋にある高島屋で初の個展を開き、それ以降各地で個展を開くようになりました。
その3年後には伊勢神宮に自身の製作した壷を献納した事により、十三代田原陶兵衛の作品はより多くの人々から注目を浴びるようになるのです。
平成2年には日本工芸展に入選するなど功績を残し2年後には十三代を襲名、平成9年には深川萩五人展という個展をニューヨークのシアトルで開催するなど日本のみならず海外でも実力を発揮していきます。
その後も日本と海外での活動を続けながら、現在も精力的に作陶を続けています。
田原家の始まり
十三代田原陶兵衛が現在も守り続けている田原家の伝統は萩焼の歴史と深く関わりを持っているのです。
萩焼の始まりは、今から400年程前の慶長9年まで遡ります。
戦国時代後期の武将である毛利輝元が萩に移った際、豊臣秀吉の命で日本に連れてこられてきた朝鮮の陶芸家である李勺光(りしゃっこう)と李敬(りけい)兄弟が毛利輝元の命で萩に移り、御用窯を築いたのが始まりです。
李勺光(りしゃっこう)と李敬(りけい)兄弟は、李朝前期の陶芸技術を用いて作陶した為、初期に作られた萩焼は朝鮮の高麗茶碗を思わせるような作風となっています。
1653年、李勺光(りしゃっこう)の子、山村新兵衛光政の高弟である李敬(りけい)の3男、蔵崎五郎左衛門が赤川助左衛門という人物と共に藩の許しを得て独立し、山口県にある深川の三ノ瀬という場所で窯を開きました。
その後李勺光(りしゃっこう)の孫である山村平四郎光俊も三ノ瀬へ移住し、藩の御用窯である三之瀬焼物所を設立、これが現在も田原家が守り続けている萩焼深川窯の始まりです。
萩焼深川窯は、開窯した赤川助左衛門を初代として代々作陶を続け伝統を守ってきました。
その為、田原家は初め赤川家と名乗っていたそうです。
ですが、8代目赤川喜代蔵の長男が縁あって苗字を赤川から田原に改名し、名前も陶兵衛と変えた事で、9代目から田原陶兵衛となり、以降現在も田原の名で代々続いています。
十三代田原陶兵衛の作品買取
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