1914年青森に生まれた関野準一郎は、同級生で後に版画家となる根市良三の家で見た切手や画集・版画のコレクションを中学時代に見て木版と銅板に興味を持ちます。
その後同じく同級生の柿崎卓治・佐藤米次郎と切手コレクションを見せてくれた根市良三と共に版画同人誌「緑樹夢」の製作に加わり1931年に出版しました。
翌年中学を卒業後、版画に更なる興味を抱いた関野準一郎は、独自の研究で昭和初期の銅版画の普及に貢献した今純三という銅版画家の元へ出向き銅版画を教わります。
今純三の元で修業を始めて3年後の21歳の頃、帝展に自身の作品を出品して初入選を果たし、その3年後関野準一郎の技術力が認められ日本版画協会の会員に抜擢されました。
日本版画協会の会員に抜擢された翌年、東京に上京した関野準一郎は、版画家の西田武雄が経営しているインク工場で一時的に勤務、その後創作版画の先駆者と言われている恩地孝四郎に師事し、版画の技術を学びます。
さらに、洋画家の鈴木千久馬が設立した絵画研究所に入所し、版画だけではなく洋画も学ぶなど新たな世界へと足を踏み入れました。
1940年には日本エッチング協会を設立、1951年には銅版画研究所を開設し作品の幅を広げていったのです。
それまで日本で作品制作や出品を続けていましたが、海外へ目を向けた関野準一郎は1953年ルガノ国際版画展・1960年アメリカ・ノースウェスト国際版画展に作品を出品し、アメリカ・ノースウェスト国際版画展に出品した作品はシアトル美術館賞を受賞しました。
アメリカ・ノースウェスト国際版画展に作品を出品した翌年には、スロヴェニアで開催されたリュブリアナ国際版画展に「華・墓・車」というニューヨーク三部作を出品し特別賞を受賞するという功績を残します。
これまでの功績が称えられ、アメリカのフォード財団からアメリカに招待された関野準一郎は、一年程アメリカで生活し、その間ワシントン大学での版画講義やオレゴン州立大学の教授を務めるなど海外で後世の育成に励みます。
帰国後も作品制作を休まず続け、1968年に行われたジャパンアートフェスティバルに作品を出品、1971年には青森県文化功労賞として青森県褒賞を受賞されました。
その後は日本版画協会の相談役を務め、書籍の出版をされるなど版画作成以外にも活動されていましたが、73歳でこの世を去りました。
関野準一郎は初めの頃、エッチングや木版を主に製作していましたが、その後はリトグラフや油絵など様々な作品を手掛けています。
作風は風景や人物など多種多様で、60年近くにわたり製作を続けた関野準一郎は、生涯で2,000点以上の作品を製作されました。
また、海外から帰国後は海外作品の影響を受け、色彩豊かな作品を多数製作するようになります。
様々な作品を手掛けた関野準一郎ですが、その中でも風景作品が多くの人から高評価を得ています。
その訳は関野準一郎の写実力にありました。
関野準一郎の風景作品の多くに建物が描かれているのですが、建物の瓦屋根の瓦を1つ1つ精密に描き、また雨が降ってる様子は灰色や白などで全体的に線を入れる事で本当に雨が降っているような作風に仕上がり、まるでその一場面を写真で写したような作品となっています。
弊社いわの美術では、関野準一郎の作品をお買取りしております。
関野準一郎は、エッチング・木版・リトグラフ・油絵など様々な技法で作品を製作されており、技法や作風、大きさによって査定額は異なります。
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買取可能な木版画家
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