彫金家・帖佐美行(ちょうさ よしゆき 1915-2002)は、従来の彫金作品の常識を力強く打ち破り、革新的技術でレリーフなどの壁面装飾や空間を飾るモビールの制作などにも果敢に挑戦し、傑出した作品を生み出したことで知られています。
帖佐は1915(大正4)年に鹿児島県薩摩郡で7人兄弟の3男として生まれました。
13歳で父を亡くし、東京で教師をしていた兄を頼りに上京した帖佐は、ある日、兄の用事でついて行った彫金師・小林照雲の工房で、偶然にも彫金に出合います。何気なしに入ったアトリエのなかで彫りかけの作品を目にしたときこそ、その後の帖佐の運命を決定することになる瞬間でした。金属の美しさに魅せられ、すっかり彫金のとりこになった帖佐はその場で小林に弟子入りを志願します。この時のことを「そのまま弟子になってしまった。今から考えると、まことに偶然というか、あるいは神の導きというか、不思議な巡り合わせであったと思わずにはいられない」と回想しています。
帖佐は、小林照雲に師事した1938(昭和13)年までを振り返り、「”芸術家“への第一歩に胸を躍らせ、努力だけは惜しまなかった」との言葉をのこしています。しかしながら、「同じものをつくることが要求された」環境に、折をみて上野の美術館に通い、絵を勉強し、写生をよくした帖佐が飽きたらなく感じるのは時間の問題でした。
次に、帖佐25歳のとき、東京美術学校の彫金科教授で日本彫金会の委員長でもあり、名実ともに日本の彫金界のリーダー的存在で、のちに人間国宝にも選出された海野清に師事します。作品には“気品”が大切なことだと繰り返し説いたという師のもと、まったくの耳新しい感性とともに、帖佐は、創作のための目、心、感性を磨き、芸術家としての道を探しはじめます。
海野に弟子入りしてからわずか1年後の1941(昭和16)年、帖佐は初めて花瓶を美術協会展に出品しています。しかも41年から43年の3年間に銀賞1回、銅賞2回を受賞し、銀賞作品は高松宮家の買い上げとなりました。このことは、それまで作品を展覧会に出品するということとは無縁だった帖佐にとって、作家として成していくための重要な出来事でした。
新進の作家として開花した帖佐は、1942年文展に初入選、以後8回連続入選を果たしたほか、太平洋戦争を経て、1946年には日展にも参加、54年より2年連続で特選を受賞しています。
こうして作家としての歩みを着実に刻んでいった帖佐は、昭和30年代頃より鉄パイプや大きなパネルを駆使した建築装飾を造るようになります。
このことは、それまでの伝統という枠を離れ、床の間のような空間を飾る細工ものとしての彫金を、ホールのような公共の場へ開放し、その大胆かつ大きな作品は、当時の工芸界のみならず、美術界にも大きな衝撃を与えたといいます。
日頃から宇宙の歴史、人類進化の過程や文化の発生など壮大なテーマについて夢想のひとときを楽しんだという作家・帖佐美行は、常に周囲を驚かせたというデッサン力の高さで、正確さとデフォルメの妙を出し、人物、動物、自然などをモチーフにした作品を手がけ、観る者の心に力強く迫る作品を世に送り続けました。
半世紀余の創作活動で築き上げられた帖佐芸術とも称される作品は、いずれもがそれまでの彫金への先入観を一気に払拭するほどの新しい造形美に溢れています。しかし、一般に帖佐作品にめぐり合える機会はごく少なく、限られた愛好者のなかで鑑賞されているのが現実です。いわの美術では、より多くの人々に作品の魅力を楽しんでほしい、観てほしいと感じております。
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