楠部彌弌の生涯をかけた陶芸の仕事は、大正から昭和期にかけ、70年に及ぶ日本の陶芸史に様々な特色を展開しました。1984年87歳でこの世を去る直前まで作陶に専念して次々と新たな作品を発表するなど、その気力は老いてもなお衰えを見せなかったといいます。過去にも本ブログにて取りあげてきましたが、今回はこの人気陶芸家・楠部彌弌について再度ご紹介させていただこうと思います。
1897(明治30)年京都市東山区生まれの楠部が本格的にやきもの造りをはじめたのは、1912(明治45)年、15歳で京都磁器試験場付属伝習所に入所した頃のことで、以降、作陶の歩みは4分の3世紀にも迫ります。長い陶歴を通じての作品群をみて、まず何よりも驚かされるのは、作域の広さと技術の多様さではないでしょうか。
白磁、青磁、染付、色絵、金彩、釉裏紅、均窯(きんよう)といった磁器をはじめ、土ものの鉄絵、抜蠟(ばつろう)、天目釉(てんもくゆう)、刷毛目(はけめ)、緑釉(りょくゆう)、志野、三島など、中国と日本の古陶磁の様式や技法を探し求め、手がけない技法はないといわれるくらい多種多様な仕事を試みました。
楠部のあとに陶磁器試験場に入所して親交のあった河井寛次郎も、東洋古陶磁のあらゆる技術に挑戦したことで才能を発揮しましたが、河井の古陶磁への研究が初期の一時期に集中しているのに対し、楠部は作陶の最初から晩年に至るまで、倦むことなく、長い年月をかけてさまざまな作調の仕事に取り組んだことは広く知られています。そればかりか、楠部の多彩な手法と様式は、決して実験的な試みに終わることはなく、いずれもが完全に楠部自身の技術となり、作品として昇華しています。
やきものの技術、とくに高度の知識とテクニックを要すると言われる、青磁や色絵、均窯風の辰砂(しんしゃ)などは、そのひとつだけでも体得するのは難しいこととされ、「これほど多くの手法を思い通りに使いこなすというのは驚異的」とまで評価されました。
実際、1968(昭和43)年の「作陶50周年展」や1980(昭和55)年の「楠部彌弌展」など、大きな回顧展が開かれた時の新聞や雑誌の論評で筆を揃えて必ず指摘されるのも、作家の作域のひろさ、作調の多面性についてでした。
それは陶芸家として生来生まれ持った資質だけでなく、日々のたゆまない努力と研鑽の結果だったに違いなく、楠部彌弌が生涯をかけてつらぬいた陶芸道の特色をなしていると言えます。
作調の端正さ、バランスよく整った品格、丹念な上絵の構成など、作品にたいする称賛は多岐にわたります。なかでも楠部彌弌の独特な手法として有名な彩埏(さいえん)は高く評価されています。
彩埏は、磁土に色をまぜて薄く溶かし、堆朱のように塗っては乾かし、乾かしては塗る、という作業を何回も繰り返しながら絵や文様を描き出す技法です。「埏」とはよく練った土の意味で、したがって彩埏とは色づけした土のことを指し、楠部はそれをとってこの手法の呼び名としました。
多くの実験と研究の末に生み出された彩埏は、土自体が色づけされているために、釉だけの色よりも、深く、厚みのある色調が生まれます。晩年の彩埏の作品には、おおむね柔らかく雅味のある色彩が用いられていますが、その淡い調子にもかかわらず、いずれも奥行きのある充実した色感を備えているのはそのためだと言われています。そしてさらにこれに釉裏紅や金彩が併用され、作品全体の色彩がきわめて複雑な変化とニュアンスに富んだものとなります。
陶芸家のなかでも抜群の画才の持ち主であった楠部の才能は、こうした彩埏技法に発揮され、端正なフォルムに活かされた優雅な文様は、あくことなきひとすじの仕事の結果として、花瓶や茶器などの作品となり、国内外問わず、多くの愛好家たちを今もなお魅了し続けています。
81歳で文化勲章を受章、その後も意欲的に制作に取り組んだ晩年の楠部の作品は、一層の優美さで人気があり、高値で取引がなされています。工芸品買取としても、作家がすでにお亡くなりになっていることから希少価値があり、今後も注目され続け高値買取対象となり得るでしょう。
楠部作品には共箱に自筆のサインと落款が押されています。この共箱が保証書を兼ねた大切な付属品で、ある、なしで買取額が大きく変動いたします。ご売却の際には共箱をふくむ付属品を揃えておくことをお勧めいたします。
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