写真の作品は、いわの美術でお買取りした九代目 中川浄益の南鐐菊花形杯です。
中川浄益は、中川家当主が代々襲名して11代まで続いた金物師であり、千家の正統的な茶道具を制作する千家十職のうちの一つを担い精巧な茶道具を作り続けてきました。
中川 浄益 | なかがわ じょうえき |
---|---|
金物師、錺師 | |
初代 誕生1559年~十一代 没2008年 |
初代は、1559年代々武器防具を制作してきた家に生まれ、家業を引き継ぎました。
千利休の依頼により、1587年に豊臣秀吉が開催の『北野大茶会』に向けて、初代は得意の打物で薬鑵(やかん)を制作しました。
ここから茶道具作りの中川家の歴史が始まりました。
この時の薬鑵は利休の『腰黒薬鑵』として茶の湯に使われる水次(水差しに水を注ぐ物)の原型として現在にも伝わっています。
中川家九代(1849-1911)は、婿養子で中川家八代であった父の事業失敗により多額の借金を背負いました。
その時代の日本の文明開化、そして鹿鳴館時代という急激な西洋化の波に呑まれ、茶道は衰退していき仕事は激減します。
中川家九代は職人としては超一流であったにも関わらず、時代の流れにより名声は得られませんでした。
父の生家でもある三井家から援助も受けましたが家業は上向かず、アルコール依存症となり生涯を閉じることとなりました。
後に息子の中川家十代によって中川家の再生が実現されることとなります。
今回いわの美術でお買取りの『中川浄益 南鐐菊花形杯』は、素晴らしい技術を持ちながら時代に恵まれなかった中川家九代の逸品です。
第一次世界大戦の軍需景気に乗り負債は完済したものの、中川家十一代の時代には第二次世界大戦による金属の不足、戦後の貧困などの厳しい時期を迎えました。
昭和30年代の高度成長期を迎え、茶道も再び繁栄しやっと家業が安定したそうです。
この激動の時代に生きた中川家十一代は2008年に逝去され、中川家十二代は空席のままとなっています。
現在制作されていない中川浄益の作品は、中古市場でさらに価値を高めています。
中川家三代は歴代の中でも鋳物の名人として名高く、三代が活躍した江戸時代には技術的に製作が難しかった銅・錫・鉛の合金を作る砂張という技法を成功させ、砂張の逸品を数多く残しています。
また、中川家七代は三代目が成功させた砂張の技法に長けており、『砂張打物』を作らせたら右に出る者はいないと言われ、名声を集めました。
不遇の時代ながら相当な腕前であった中川家九代は、煎茶道具や南鐐(精錬した美しい銀)の作品を数多く残しています。
歴代の中川浄益の作品は数多く、水次薬鑵(みずつぎやかん)、銀瓶、火鉢、手爐(手炉)、灰匙、火箸、火入、建水、釜鐶、蓋置、盆、茶托、菓子器、蓋物、花器、香合、酒次、酒器、銚子、箸、楊枝入、煙管(キセル)などが存在しています。
中川浄益の市場価値は何代目の作品であるか、細工の素晴らしさ、落款がはっきり刻まれているかどうか、保存状態により大きく評価が異なります。
また、素材が銀であるとその分高く評価されます。
小さな作品でも、現代では難しい職人技が見られるような繊細な細工が施された作品も買取価格が期待できます。
付属品も重要で、保証書や鑑定書、共箱などがありますと査定金額は更に上がります。
茶道具の処分や倉庫の整理など、お手持ちの中川浄益の作品のご売却をお考えの場合は、いわの美術までご連絡下さいませ。
いわの美術には茶道具買取りの専門スタッフが、中川浄益の価値を高く評価して査定いたしております。
お客様のご納得の上でのお買取りをいたしておりますので、お気軽にお問い合わせ下さい。
スタッフ一同ご連絡をお待ちいたしております。