河井寛次郎は『無銘の陶工でありたい』と文化勲章や人間国宝を辞退した民芸の陶芸家です。
稀代の文化人として知られ、生活を楽しむ日常使いの美や、生命感の溢れた力強い作品など、新たな美を生み出し続けました。
河井 寛次郎 | かわい かんじろう |
---|---|
1890年~1966年 | |
陶芸、木彫、金工、書道 |
河井寛次郎は島根県の大工の家に生まれます。
20歳の頃に東京に出て、東京高等工業学校(現東京工業大学)で陶芸を学び、卒業後は京都市陶磁器試験場に入所し、1万種以上の釉薬の研究や陶器の模写を重ねました。
陶磁器試験場卒業後に五代目清水六兵衛の釉薬を2年間サポートをしていた縁で、30歳の時に京都五条坂にあった清水家の窯の一つを譲り受け、陶作を開始します。
その頃は宋の陶器に憧れ、華やかで高度な技術が惜しみなくあしらわれた作品を生み出し注目を浴びました。
しかしながら無名の職人による簡素で美しい作品に衝撃を受け、作風は実用的で簡素な造形に大きく方向転換しました。
無名職人による日用の美を世に広めたいと、自分の作品に銘を入れなくなりました。
素朴でありながら芸術性が高く、独特の釉薬の美しい発色で高い人気を誇り国内外で評価を受けますが、第二次世界大戦中は材料不足で作陶できなくなりました。
ですが、その間は詩、詞に没頭し、創作意欲が途切れることはなかったそうです。
戦後に作陶再開した際は作風に再び変化が起こり、ぬくもりがありながら躍動的で力強く自由な造形へと変化しました。
晩年は文化勲章や人間国宝は辞退するなど無名にこだわり、意欲的に制作を続けたそうです。
31歳でデビューした河井寛次郎はその超越した技と豪華さで注目を浴び、最初の展覧会で世間の絶賛を浴びました。
しかし新進気鋭の美学家として知られた柳宗悦(やなぎ むねよし)からは酷評を受けます。
ちょうど自らの作風に疑問を持っていた河井寛次郎は、柳宗悦や後輩で同僚として一緒に研究を重ねた友人の濱田庄司の影響を受け、『用の美』の魅力に囚われて行きます。
そして柳宗悦、濱田庄司と共に、華美な観賞用の工芸品ではなく日常使いの美を追求する『民藝運動(民芸運動)』を起こした中心人物となりました。
1920年に京都五条坂の清水六兵衛の窯の一つを購入し、鐘渓窯(しょうけいよう)と名付け自宅兼工房を構え、陶芸家として独立し河井寛次郎は生涯ここで制作を行うこととなりました。
その後1934年の室戸台風で被害を受けたことをきっかけに、鐘渓窯は改築が行われます。
元々実家が大工で妻のつねの実家も宮大工であることから、建築に関する造詣も深かったようで、飛騨高山の民家などにヒントを得て河井寛次郎自ら設計したそうです。
建設は大工である実家を継いだ兄が指揮を取り1937年に完成しました。
鐘渓窯は現在、河井寛次郎の美意識と世界観が味わえる河井寛次郎記念館として一般公開されています。
鵬雲斎(ほううんさい)は茶道裏千家の先代である15代で、家元の座は16代に譲ったものの『大宗匠(だいそうしょう)』として現在も活動しています。
裏千家では本当に良いと認めた茶道具に花押(かおう)を付け、これらは花押付、花押有などと呼ばれ、価値が上がります。
河井寛次郎が銘を入れたのはデビューしてからの4年間のみで、以後は銘が入っていません。
そのため共箱があるだけで査定額が大きく上がります。
共箱がないけど河井寛次郎の作品かもしれない、という場合は写真を撮ってお問い合わせ下さい。
今回いわの美術でお買取りの花入れのように、共箱に鵬雲斎花押つきはプラス査定となります。
共箱の他にも共布や鑑定書などをお持ちでしたら、一緒にお出しになれば価格が上がります。
作品の保管状態によっても価格は変動しますので、作品の状態を撮った写真を送付の上での無料査定がお勧めです。
いわの美術はこれまでに多くのお客様から河井寛次郎の作品をお買取りいたしました。
また、河井寛次郎の甥の河井武一やその息子の河井透の作品もお買取りいたしております。
古い家や蔵の整理、遺品整理などでご売却をお考えの河井寛次郎の作品がございましたら、いわの美術までお問い合わせ下さいませ。
今回お買取りの花入れは、作品の状態が良く共箱と更に花押つきであったので高額買取いたしました。
いわの美術では河井寛次郎の作品を数多く買取している経験豊富な査定人が、お客様の大切なお品を一つ一つ丁寧に見極めます。
無料査定はWEB、LINE、電話で簡単に行えますので、初めての方でもお気軽にご利用下さい。
スタッフ一同ご連絡をお待ちいたしております。