いわの美術では以前にも古沢岩美の絵画作品をお買取りさせて頂いております。
弊社では古沢岩美の絵画作品のお買取りを強化いたしております。
ご家庭に飾っておられます作品群の中に古沢岩美の絵画作品が御座いましたら、いわの美術まで是非お問い合わせください。
お問い合わせの際は作品の写真をお添え頂けますと査定が順序良く進めることができます。
古沢岩美は佐賀県三養基郡に生まれ、日本の洋画家として晩年まで数多くの作品を残してきました。
16歳だった古沢岩美は、高校中退後洋画家の岡田三郎助に師事し、彼の元で絵画の基礎や技術を学びます。
1938年洋画家の寺田政明、小牧源太郎、北脇昇、糸園和三郎、吉井忠ら19名と創紀美術協会を創立しますが、すぐに解散となり1939年創紀美術協会の一部メンバーと共に美術文化協会結成しました。
また、美術文化協会結成と同じ年に、東京朝日新聞が創立50周年記念に開催した挿画コンクールに応募して見事一等を獲得します。
画家としての活躍がこれからという時戦争時代に突入し、古沢岩美は戦場に送られ厳しい戦争時代を生き延びました。
戦後は、1948年に憑曲、1952年に餓鬼、1956年に斃卒という作品を発表しましたが、どの作品も暗く不気味な作風で戦争の悲惨さなどが感じられます。
1982年、古沢岩美美術館にて開催された古沢岩美展の図録によると
「上から見れば「世間は虚仮」であろう。しかし虚仮の世間の中に不易の真実を発見してこそ芸術は存在価値があると思う。私が社会問題を取上げるのは時代の証言を残すためであり、エロチシズムを主題に選ぶのは不易への挑戦である。」
とあります。
上記の言葉通り、古沢岩美は戦後から題材を一貫しており、シュールレアリスム(超現実主義)の思想を基に女体を主体として油彩画作品を多数世に出品しております。
洋画家として多数のシュールレアリスム絵画作品を発表してきた古沢岩美でしたが、2000年東京都板橋区の板橋医師会病院にて肺気しゅのため88歳で死去しました。
1938年、「蒼暮」、「地表の生理」第8回独立美術協会展
1948年、「憑曲」第1回モダン・アートクラブ展
1952年、「餓鬼」第1回日本国際美術展
1956年、「斃卒」第2回現代日本美術展
古沢岩美は、戦争を体験した事で暗く不気味な作風が多かったですが、その後は一変して妖艶な裸婦画を多数描いていきました。
古沢岩美の描く裸婦画は、女性独特の肌の柔らかさや、白さ、ふくよかな肉付き、綺麗な曲線美など、とても細かく描かれています。
また、古沢岩美が最初に絵を教わった岡田三郎助の作品と見比べてみると、柔らかい曲線がどことなく似ているようにも見えます。
今回ご紹介した「ひなげしを持つ女」という作品でも、古沢岩美の特徴でもある柔らかい曲線やふくよかな肉付き加減が表現されていました。
古沢岩美は、リトグラフやパステル、デッサンなども描いていますが、今回ご紹介した作品は油彩画でしたので、より絵に立体感が生まれた事で素晴らしい作品へと仕上がりました。
また、「ひなげしを持つ女」という作品で女性が持っている赤いひなげしの花には、「慰め」・「感謝」という花言葉があるそうです。
いわの美術では古沢岩美「ひなげしを持つ女」のお買取りを強化いたしております。
絵画作品は傷の有無やエディションナンバー、大きさにより評価が変わります。
肉筆作品ですと特に高評価が期待できます。
お問い合わせはお電話かメール、LINEにてお受けしております。
お問い合わせの際は写真を添付頂けますとWEB無料査定を行うことができます。
古沢岩美「ひなげしを持つ女」のご売却をお考えの方は、是非いわの美術までお問い合わせください。