東山魁夷の「道」をお買取りいたします。【2018年買取・新着情報】

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新着情報

東山魁夷の「道」をお買取りいたします。

2018.4.4

東山魁夷の「道」をお買取りいたします。

 

写真のお品物は、東山魁夷の「道」岩彩方式複製画です。

作品は1950年に製作され、風景画家として不動の地位を確立する契機となった作品であり、真っすぐに続く道だけを絵にした大胆な構図は、戦後の復興期の機運とも相まって日本画の新機軸を示しました。

モデルとなった青森県八戸市の種差海岸には作品に因んだ碑が建てられています。

岩彩方式とは最高水準の特殊印刷技術を用いたシルク版画で、日本画固有の岩絵の具と胡粉の色彩や質感を豊かに再現する手法で、生産数の少ない希少なお品ものです。



東山魁夷と作品について

東山魁夷は日本画家として広く知られ、90年の長い生涯で1200を超える作品を残しています。

1908年に横浜市の船具商を営む家の次男として生まれ、3歳の時に神戸市へ転居し、中学在学中から画家を志しますが、幼いころから家庭内の不和に悩み、画家の夢は父から反対を受けました。

それまで洋画を描いていたものの日本画であれば進学を許可されたことから東京美術学校日本画科に入学し、在学中の1929年に第10回帝展に「山国の秋」を出品すると初入選となり頭角を現します。

この朗報に先立って兄が結核で早世し、作品は残念ながら戦争で焼失しています。

卒業後に研究科へ進むと結城素明に師事し、雅号を魁夷と名乗り始めました。

結城素明は、自らを鏡として自然に向き合う姿勢を説き、魁夷が元来抱いていた芸術観と呼応しその後の基礎となります。

美術学校研究科を修了すると西洋美術を学ぶため渡欧し、1933年に第1回独文化交換学生に選出され、ドイツのベルリン大学に国費留学して2年に渡り美学と美術史を学ぶ機会を得ます。

しかし留学期間を残したまま父が病気となり帰国し、実家の苦境にも悩まされることとなりました。


ドイツ留学時代に出会ったカスパー・ダーヴィド・フリードリヒの作品は、魁夷の作品に影響を与える存在となり、1939年発行の「美の國」にて独逸浪漫派の二巨匠という文を寄稿し、初めて日本に紹介しました。

幼くして兄弟・両親と死別する不遇の生い立ちが魁夷と共通していることも一因となったのか、静観した風景に心象をかさねるロマン主義的で崇高な表現は、その後の魁夷の作品に共通するものとなります。


32歳の時に日本画家である川崎小虎の長女と結婚し家庭を得ますが、翌年に弟が結核を発症し、母親もまた脳溢血に倒れ、不遇のまま太平洋戦争へ突入します。

続けざまに父も死去し、母と妻と疎開した先で応召し画業は中断され、熊本で終戦を迎えました。

この熊本の地で熊本城から街を見渡した時に、風景に対峙する霊感を得たと伝えられ、戦中の苦境にあっても芸術への心を見失うことはありませんでした。

終戦後に家族の生活が戻ったのもつかの間、母と弟が相次いで死去し第1回の日展にも落選してしまい、魁夷の生涯で最も辛い時期だったかもしれません。


しかし同年の秋、第2回日展で「水辺放牧」が入選すると、次第に道が開けてきます。

戦後の貧しさの中で昭和21年の冬に訪れた、九十九谷を見渡す千葉の鹿野山からの風景を描いた「残照」が翌年の第3回日展で特選となったうえ政府買上げとなり、大きな転機を迎えました。

39歳にして日本画家の道が拓け、1950年の第6回日展に出品したのが写真のお品物である「道」でした。

風景画家として不動の地位を確立した魁夷は、1956年に「光昏」で日本芸術院賞を受賞し、1965年に同会員に任命され日展理事となります。


1950年代の魁夷は、「道」での成功から多くの仕事が舞い込んだ時期で、新潮社の表紙絵制作を契機に川端康成と出会い、以降17年にわたり親交を持ちました。

西洋化・近代化の波が加速する時代において、今描いておかなければ5年10年後には失われるとして、京都を描くことを勧めたのも川端康成でした。

日本の美を追求するとともに、幼少期に読みふけった絵本や児童文学から北欧に望郷の念があり、54歳の時に北欧4か国を旅行し作品集に纏めました。また青年期を過ごしたドイツ・オーストリアも62歳で再訪し、晩年まで当地の風景を作品にしています。


魁夷の作品は画業の佳境になるにつれ、青色を主とした作品が多くなりました。

青については魁夷自身の言葉で「心の奥に秘められて達することの出来ない願望の色」と語っており、特別な意味合いを持っていると言えるでしょう。

1960年代に日本芸術院会員・日展理事となると、平明でいて独自性の強い日本画を追求しながらも、日本の伝統的美意識が求められる宮内庁の依頼で東宮御所や皇居宮殿にかかわる重要な仕事をします。


1960年に東宮御所のため制作した「日月四季図」にはじまり、1968年に落成した皇居宮殿では最も重要な部屋の障壁画を担当しました。

昭和の皇居宮殿を設計したのは、魁夷邸と同じく同輩の吉村順三であり、他にも宮殿内の多数の装飾を同時期の美術家に委嘱していました。

日本に来たという印象の作品、という指示に海の構想を得た魁夷が、日本全国の海岸を取材し打ち寄せる波と潮風の日本的風景を大作に描き、長和殿波の間の「朝明けの潮」が海外から到着した賓客を最初に迎える大役を担っています。


1970年代には唐招提寺の連作を10年に渡って完成させる大仕事に取り掛かり、75年に「山雲」「濤声」を完成させ、その5年後に畢生の大作である「黄山暁雲」「揚州薫風」「桂林月宵」を完成させ奉納しました。

唐招提寺の障壁画制作に入る前に、魁夷は鑑真和上や律宗について思索を巡らせ、前2作は日本の風土を青色あざやかに、後3作は和上の故郷である中国の壮大な風景を墨一色で表現しています。

これに先立ち1976年から中国の桂林や黄山などを訪れ、雄大な大陸風景と悠久の歴史に触れながら写生など習作を行い、歴代の文人墨客が好んで描いた絶景を3作の障壁画に描き切り、奉納を終えたとき魁夷はすでに72歳となっていました。


この頃、通常の作品制作も精力的に行うなか、人物の登場しない風景画に変化が訪れました。静謐な情景のなかに一頭の白い馬があらわれ、これの意味するところは鑑賞者に任せると魁夷は語り、今日まで魁夷の代表作として広く知られる連作が生まれます。

魁夷の作品は様々な画題や色彩を用いながらも、一貫して簡潔な構図と単純化されたモチーフが心象を浮き彫りにしています。


1980年代から晩年まで、日本を代表する画家の地位となった魁夷は1984年に日展顧問に就任し、1990年には長野県信濃美術館に東山魁夷館がオープンします。

1995年には、山岳風景に魅せられる契機となった学生時代に登山したゆかりの地、岐阜県中津川市に東山魁夷 心の旅路館も開館します。

絶筆となった「夕星」は、鏡のような湖面を中心にしずかな森と木と夜空の風景が対称に広がる作品で、これを遺して1999年に91歳で大往生されました。



東山魁夷の作品、リトグラフをお買取りいたします。


昭和を代表する日本画家である東山魁夷の作品は、肉筆はもちろんのこと複製画であるリトグラフやシルクスクリーン、岩彩方式印刷画なども、微細な質感の再現に気を配った精密なものが多く、中古市場でも高値でお取引される例が多くみられます。

特に直筆のサイン・署名のある場合は、高値でのお買取りが期待できるお品です。

写真のお品物では、日本画の質感と色彩を細部にわたって再現可能とする岩彩式の特殊印刷を用いており、額装・保証書も付属していたため高評価でのお買取りとなりました。


いわの美術では美術品・骨董品を中心にお買取りしており、東山魁夷作品にも多数の買取実績がございます。



ご自宅やご実家の整理、蔵や倉庫などのお片付け、遺品整理などでご売却をお考えの東山魁夷作品がございましたら、ぜひ、いわの美術にお任せくださいませ。専門の査定員が拝見し、市場を鑑みた最高値をご提案できますよう尽力いたします。

お買取り査定のお申し込みは、お電話・メール・LINEにて随時受付しております。メール・LINEにてお写真をお送りいただきますとオンライン無料査定が可能となります。

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