写真のお品物は、以前いわの美術でお買取りしました、加納夏雄の大小鍔「甲子仲夏於東都」です。素銅に片切彫りと金銀色絵象嵌の細工が施され、両面で異なる絵となっています。表面は室内の一角を切り取ったような、2双の屏風が向かい合わせとなった直線的な図柄です。一枚の屏風は富士図の裏側に唐草模様、もう一方は裏側に七宝繋ぎの柄が描かれ、どちらも吉祥絵図であることが伺えます。裏面は御簾の外に秋草と鈴虫が描かれた秋の風景となっており、両面で違った技巧が凝らされた逸品です。
加納夏雄は幕末から明治期に活躍した金工師で、1828年に京都の米問屋に生まれ、7歳で刀剣商の加納治助の養子となりました。幼少の頃から鍔や柄の美しい刀装具金工の世界に馴染み、独学で鏨を使い始め、養父母の勧めから若干12歳で彫金師奥村庄八に師事します。14歳からは金工の基礎技術を学ぶため円山四条派の絵師中島来章のもとで絵画の修業もしました。
19歳で金工師として独立し、25歳の時に京都から東京神田に移り店を構え、江戸の間は鍔や小柄など刀装具の制作に集中します。この頃からすでに先進的な制作体制をとり始め、制作工程を加納個人で完結させず、複数の職人たちを指揮下に置き分業し量産するマニュファクチュアを完成させていました。これが後々の明治維新と西欧化の激動の渦中でも生き残りに成功した理由の一つとなります。
幕末の開国から明治維新を迎えると、すでに安定した技術力で知られていた加納の彫金細工所は明治政府から新貨幣の原型制作を依頼されます。当初は原型のみ加納が担当し、型はイギリスで製作する予定だったものの、加納の技術の高さから技師が辞退してしまった結果加納がすべて任されることとなり、加納の実力の高さを伝える逸話となっています。
明治6年のウィーン万博に明治政府は正式に参加し、明治維新以降西欧化の波に押され苦境だった伝統工芸界に転機が訪れます。国策により離散していた工芸職人が再び集められ、日本最初の博物館や工芸品の貿易商社である「起立工商会社」も設立されます。このような伝統再興の機運の中、加納は東京を中心に一般美術工芸の振興にも努めました。
明治9年の廃刀令以降、同業の刀装具金工師の廃業が相次ぐ中でも、刀装具以外の需要を逃さず煙草入れや根付の名品を生み出しつづけ、国内外に名声を広めました。明治23年には第三回内国勧業博覧会で百鶴図花瓶が一等を受賞すると宮内省に買い上げられ、明治宮殿の桐野の間に飾られたとされています。また同年、皇室による美術作家の保護と制作の奨励を目的とした第一回帝室技芸員に選出されます。東京美術学校の初代教授となり、後進の芸術家の育成にも貢献し、ここで加納と並ぶ金工巨匠となる海野勝珉も指導するなど、晩年まで活躍を続けました。
いわの美術では骨董品・古美術のお買取りをしており、過去に加納夏雄の刀装具もお買取り実績がございます。ご自宅またはご実家等の整理で、ご売却をお考えの刀剣や刀装具、加納夏雄の作品がありましたら、弊社にお譲り頂けませんでしょうか。
歴史的な名匠である加納夏雄の作品には、刀装具のほか煙草入れや花瓶などの実用工芸品もあり、いずれも中古市場にて高額でお取引されています。写真のお買取りしたお品物も、大小揃いで桐の共箱付き・銅に緑青なども生じず状態良好であったため、高値でのお買取りとなりました。
いわの美術では、買取実績豊富な専門の査定員が市場相場を踏まえて適正な査定をしております。お電話のほかメール・LINEでもお問合せを受付しております。その際、お写真を添付いただくと無料のネット査定が可能となりますので、ぜひご利用くださいませ。お客様の大切なお品物を、丁寧に扱わせて頂きます。ぜひ、いわの美術へお任せください!