北村四海の大理石彫刻作品をお買取りいたします。
写真のお品物は、いわの美術でお買取りいたしました、北村四海の作品「大理石裸婦」です。
北村四海(きたむら しかい)西洋美術の黎明期に西洋大理石の彫刻家として、明治から昭和初頭にかけて東京で活躍しました。
大理石彫刻家は現在でも日本では珍しく、美術的価値の高い北村四海の作品は注目に値する逸品です。
北村四海は1871年に長野県で、宮彫師の父の元に生まれました。5歳となる年に新潟県糸魚川市に転居し、幼少から父の仕事を手伝い彫刻に親しみながら、新潟・富山・長野を中心に宮彫の仕事に同行しました。
世話人の勧めから18歳で最初の上京を試み、東京美術学校の門を叩くも、木彫の授業しかなく塑像の勉強ができないことから、ひと月で帰郷します。
1893年に渡仏の夢も抱いて再び上京し、牙彫家の島村俊明に学び、小倉惣次郎、新海竹太郎らと出会い西洋彫刻に関心を抱き、洋風彫刻への転向を志したものの体調を崩し帰郷、回復後は再び長野や上越で宮彫の仕事を手掛けました。
1896年に越中・北村四海の名で木彫作品「神代馬乗人物置物」を日本美術協会展に出品、神武天皇をモチーフとしたこの作品が一等となると、富山県出身である安田銀行創始者・安田善太郎の目に留まります。
これが大きな転機となり、善次郎の援助で三度目の上京を叶え、石川光明に師事しながら解剖学を学ぶ機会も得ました。
この頃から大理石彫刻に挑み、明治32年の大理石少女像が賞を受け、翌年にはパリ万国博覧会視察の作家代表に選ばれ、渡仏を果たします。
四海が滞在した時期のパリはアールヌーヴォーが最盛期を迎え、パリ美術学校とジョルジュ・バローの工房に通い、多くの感銘を受け、学びを得ました。
しかし翌年夏に結核を発症、フランスで入院生活を経て翌年初めに帰国、秋まで故郷の新潟で静養し、明治36年に東京へ戻ります。
その際、甥の虎井友吉を伴って上京し、新進気鋭の西洋大理石彫刻家として活動を開始した四海の製作を、友吉も手伝うようになります。
3年後四海の父が逝去し、明治42年に友吉を正式な養子とすると、北村正信の名で同じく大理石彫刻家として活躍するようになりました。
四海は大正5年からは文展の審査員も務め、帝展となってからも続きました。
大正7年に東京の家を北村正信に譲り、実母の暮らす相州三崎(現神奈川県三浦市)へ転居し、晩年の拠点となりました。
ほどなくして2年後には、四海の作家人生を支えてきた安田善次郎が逝去します。
四海と安田家との関わりはその後も続き、大正15年には「勤倹安田善次郎坐像」と題したブロンズ小像を232体鋳造し、関係者へ頒布されました。
同時期の作品に「女性立像」があり、晩年まで表現の高みを追求した制作を続け、56歳となる昭和2年、肺結核で永眠しました。
西洋美術においての大理石彫刻は、ギリシア以来長い伝統がありますが、日本では仏師や宮大工の系譜に連なる木彫と、明治時代に輸入されたブロンズの技法が主流となり、大理石彫刻を手掛ける作家は少ないと言えます。
北村四海は安田善次郎の支援があり、彫刻家として身を立ててからも安田家、慶應義塾関係者との縁で作品頒布会が定期的に開かれていました。
そのため北村四海の作品は大きく分けて3種類に分類でき、展覧会出品作品・顧客注文による肖像彫刻作品・頒布会で不特定顧客に売却された作品 となります。
北村四海の作品を真作であると確認する手がかりのひとつとして、お品物の来歴は重要な手がかりとなります。ご自宅やご実家、蔵や倉庫のお片付けをされて、北村四海の作品がございましたら、まず入手された時期や場所をご確認されることを推奨いたします。
文展・帝展審査員を務め、明治の西洋美術黎明期から大理石彫刻を手掛けた無二の作家でありながら、北村四海の作品は中古美術市場に流通することが比較的少ない傾向にあります。
晩年の作であっても100年余りが経過しており、大理石の状態に変化がある場合もありますが、作品自体の価値が高く状態が完璧でなくともお買取り可能な場合があります。
まずはお気軽にお問い合わせください、お電話・メール・LINEにて随時受付中です。
作品の全体像・箱・タイトル等をお写真にお撮りいただき、メールまたはLINEでお送りいただきますと、オンライン無料査定をご利用いただけます。ぜひご検討くださいませ。