写真のお品物は、小林和作の風景画作品です。大正から昭和にかけて活躍し、日本画から洋画へ転向した異色の経歴を持ち、風景画作品を多く描いていることでも知られています。
自由な画面構成と豊かな色彩感覚で洋画を描く背景に、日本画や山水画の教養が根付いた独特の世界を表現し、存命中から没後40年を経た今日まで長く人気の画家です。
小林和作は明治21年に山口県吉敷郡秋穂町の裕福な地主の家の次男として生まれ、少年時代より勉学優秀に加え画才を発揮していたと伝えられています。
兄は幼くして夭逝したため、父は和作に家業を継がせる意向であったものの、病弱なことと画家を志望したため跡継ぎとはなりませんでした。
15歳で上京し、画家の道に理解を示してくれた父とともに日本画家の田中頼章の門を叩くが健康状態が悪化し帰省します。
翌明治37年に京都市立美術工芸学校絵画科に入学し、4カ年学んだのち卒業後は日本画家の川北霞峰に入門しました。
明治43年に京都市立絵画専門学校日本画科に入学し、同年の第四回文部省展覧会(文展)に「椿」を出品し初入選します。この文展で見た作品に感銘を受け、絵画制作への熱はこれを契機に勢いを増していきます。
大正2年に同校卒業後、文展に「志摩の波切村」を出品し褒状を受け取ることとなりますが、当時は公募展が少ないこともあり数回落選の憂き目に遭い自身の日本画の可能性に悩む時期となりました。
大正7年30歳の時に大海の名医の娘マサ子と結婚し、この頃から日本画から洋画へ転向し、
日本画の作品と画材をすべて焼き捨てて再出発する徹底ぶりで、その2年後洋画家の鹿子木孟郎の画塾で木炭素描の基礎から学び、ここで林義重と北脇昇を知ります。
長男が誕生した翌年の大正10年に父を看取ると、大正11年に林重義とともに東京へ移住し、梅原龍三郎と中川一政、林武らと交流をもち指導を受けます。
父の死により実家から多額の相続を受けていた和作は富豪画家となり、間接的な形で周囲の画家を経済的に助けることが多くありながら、謙虚で温和であり、若手からも大変慕われたと伝えられています。
大正13年の第2回春陽会に「夏の果実」を出品し、以降毎年出品を続け春陽会賞を受けたことで、昭和2年に春陽会会員となりました。
昭和3年に林重義らと渡欧するとフランス・イタリア・イギリスを巡り、印象派の大家で知られるセザンヌの故郷、エクサン・プロバンスに長期滞在し1年以上を南欧で過ごす中で、異国の風景を眺めながらも日本、とくに故郷秋穂の美しさを再確認しました。
自然と風景に対する独自の考えを確立したと手記に残し、プロバンスやカプリ島の風景を描いた作品を帰国後に第7回春陽会に出品しています。
昭和5年に林武や児島善三郎・福沢一郎らが独立美術協会を創立した頃、故郷で財産を預かっていた弟の株の失敗で全財産を無くし小林家は完全破産します。
これまで絵を売る必要性に駆られることもなかった和作は零落の苦しみに見舞われますが、
破産そのものよりも破産に伴って崩壊した人間関係に傷心し、昭和9年に東京を脱して広島県尾道市に居を移しました。
同時期に春陽会を辞し独立美術協会に所属をうつし、ここで須田国太郎とも出会い懇意となり親交は生涯続きます。
尾道ではアマチュア画家へ絵の指導を始める契機を設けられるなど、尾道で唯一の知人となった京都絵画専門学校の後輩の森谷南人子に助けられました。
転居の翌年になると田舎暮らしにもなじみ始め、尾道の風景の美しさが和作を捉え、東京近郊はもとより写生旅行で以前訪れた北海道や小笠原にも勝るとして、尾道の風景画を精力的に制作しはじめます。
油絵道具は大荷物となり時間も要するため、次第に水彩を用いて眼前の風景を素早く作品におさめる手法をとり始め、筆を速めることにもなりました。
和作の場合、画業の始めが日本画であったことから、従来の西洋画の風景画制作とは異なる風景画の制作方法も独特でした。油絵は写生を基にして描くのに対し、和作は戸外に矢立てをもって出てデッサンをし、それをアトリエに持ち帰り仕上げていました。
古くからの山水画の描き方を踏襲しながらも自由な表現である西洋画を貫き、画の壇でも評価の高かった色彩感覚も加わって、和作の作品は独特な風景画と言えます。
尾道での生活にも慣れ年2回の写生旅行も復活した昭和12年、波瀾の時代を共にした妻を亡くし、傷心の頃東尋坊を描いた絵は異例の静けさを称えたもので、その後から春の絵などの制作に集中し展覧会へ多数出品しました。
昭和16年に太平洋戦争が勃発し、まだ世間に明るさの残る翌年に再婚しますが昭和18年に長男が肺炎で死去し、出征は免れたものの早世した愛息に哀惜の意を随筆にも残しています。
戦争画を描かなかった和作は画材の配給も途絶え、しばらくの間は日本画を制作しました。
終戦間近の昭和20年7月に母が死去すると秋穂で葬儀を執り行い、8月6日早朝の汽車で尾道へ戻る予定を急遽変更したため被ばくを免れるという数奇な運命を辿ります。
終戦後、昭和22年に戦後初の第15回独立展や、毎日新聞主催の洋画12団体の参加する第1回美術団体連合展などが開催され、戦中の乏しい画材で製作した「伯耆大山の雪」などを出品し和作の後期代表作となりました。
昭和25年には朝日新聞社主催の第1回選抜秀作美術展に抜擢され、日本橋の北荘画廊で戦後初の個展を開くなどし、復興を遂げた和作の画業は60代に入り佳境に入ります。
昭和27年に米仏など7か国参加による第1回日本国際美術展に出品した「春光」は日本人画家として1位を獲得し、60代半ばにして衰えぬ創意と制作への意欲に満ちている異例の画家とされました。
昭和28年には芸術選奨文部大臣賞を受け、美術界で高い評価を得ても尾道に根差した田舎の画家であることを重んじ、一般の人々から様々な絵の仕事を引き受け、地元の文化財保護事業や青少年の育成に出資するなど助力を惜しみませんでした。
また文才もあり自ら絵画論や交友関係について語った随筆も多く残し、周辺の画家の人となりや作品についても窺い知る貴重な資料となっています。
70歳を超えてもさらに作品を進化させ、写生旅行も継続し多作の勢いも衰えず、昭和46年には勲三等旭日中綬章を受けています。
昭和49年に写生のため訪れた広島にて、不慮の転倒での頭部負傷により亡くなられました。死の3日前にも寺院の衝立に水墨画を完成させており、文字通り生涯現役の画家であり、その人柄と功績から没後も多くの人に偲ばれ多数の回顧展開催と画集の出版が成されています。
小林和作は尾道に移住してから多作の画家となったため、後期の作品は多く残されており、中古市場でも流通が多く見られる画家です。
本当に美しい風景を常に求めて生涯写生旅行を欠かさず、取材した日本各地の名跡が独特の筆致と色彩で描かれており、高値でのお取引が非常に多い画家と言えます。
風景画は油彩画と水彩画があり、とくに高値となるのは油彩ですが、水彩画にも短時間で風景とその時間の空気感を掴んだ独特の魅力があります。
写真のお品物もごく淡い水彩で全体が描かれた上に、墨ペンでアクセントを加える手法の作品で、これはより瞬間の美しさを掴む風景画の手法として和作自身が随筆で語っています。
つねに美しい構図を探し、同じ土地でも様々の風景画を残した和作の風景画作品は同じものが2つとないことも特徴です。
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