こちらのお品物は、いわの美術でお買取りいたしました古染付(こそめつけ)の壺です。
古染付は中国・明末期の下手となりますが、そのおおらかさから日本の茶人に好まれました。
暗めの発色が多いと言われる古染付ですが、こちらの壺は鮮やかな発色が美しく、大輪の花が咲く花唐草がのびのびと描かれています。
白い磁器に青い絵付けが特徴の染付は中国では青花(チンホア)と呼ばれています。
白地に青い文様の元々の起源はイスラム陶器であり、元の時代に青い顔料であるコバルト顔料がイスラム圏から入ったことから青花が始まったという説が有力です。
中国ではそれまで鉄や銅などの顔料を磁器の絵付けに使用していましたが、厳しい炎の管理を必要としないコバルト顔料は使いやすさで重宝されました。
元の時代の青花は元青花(日本では元染付)と呼ばれ、モスクやタイルの文様に似た西方風(オリエント風)のデザインが特徴であることから、イスラム圏の中東諸国からの受注品が中心であったと考えられています。
元の末期に景徳鎮で青花技法が確立しますが、中国では祭礼などには白磁が良しとされ、青花は俗な物とまで言われ低評価でした。
それでも景徳鎮の玉のように美しく薄い磁器に鮮やかな青で彩られる青花は次第に中国でも認められ、明の宣徳年間(1426~1435年)には官窯・景徳鎮窯の主力作品となり、最高品質の青花が大量に生産されます。
しかし無償労働であった工人達は疲労困憊し、宣徳年間以後からは生産が抑えられました。
再び官窯で大量生産の際は段階的に工人の負担が軽減され、成化年間(1465~1487年)は銀納で労働免除の措置、嘉靖年間(1522~1566年)には雇用制と民窯への委託が始まりました。
民窯での委託焼成によりそれまでの格調が失われ磁胎も厚くなりますが、のびやかで親しみのある青花が生産されます。
そして明の末期(~1644)には王朝の統率力が失われ、景徳鎮では民窯が国内一般や輸出向けに粗製の青花を大量生産しました。
雑な作りでしたが、日本の茶人には逆に好まれます。
口縁の釉はげは『虫喰い』と呼ばれ、簡略化された絵柄も日本の茶人のハートを射止めました。
この明末に制作された青花は日本では『古染付』と呼ばれ、今でも日本人に人気です。
中国の染付に必要不可欠であったイスラム圏のコバルト顔料は人工的に作られた物で、中国では回青と呼ばれています。
回青は鮮やかですがカリガラス状でザラザラして描きにくく高温火力に弱いという欠点があり、中国製の土青と混ぜることにより欠点を補う一方で、その混合比によりランク付けもあったようです。
元末期はイスラム圏との交易が途絶え回青が入手できなくなり、土青の比率が増えたことにより黒ずんだ淡い発色となっています。
明の永楽~宣徳年間(1403~1435)は、イスラム圏の良質のコバルト顔料獲得に成功し、中国の染付の黄金期となりました。
しかしそのイスラム圏のコバルトは成化年間(1465~1487年)の後期には尽きてしまったことから、鮮やかさのない淡い青となります。
さらに節約の為に白の余白が多くなりますが、むしろ調和と格調は極められ、この時代ならではの美が確立しました。
正統年間(1436~1449年)からはイスラム圏からのコバルト顔料の輸入が再開し、こちらは濃く鮮やかでやや紫がかった発色が特徴です。
嘉靖年間(1522~1566年)にはこの紫がかったコバルト顔料で安定した生産が行われ、明代で最も作品が残っている時代となりました。
この後、明から清への王朝交代の混乱期を迎え、清の時代は中国製のコバルト顔料がメインで使用されたそうです。
コバルト顔料は日本では呉須と呼ばれ、染付の必需品として長い間 中国から輸入されてきました。
時代の変化と共に合成呉須が登場し、現代では主流となっています。
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