日本を代表するガラス作家の一人で、茶道具はもちろんのこと多様なグラス・ドローイングの手法を用い抽象化されたオブジェなども多数制作されている作家です。
益田芳徳は1934年(昭和9年)、東京都の茶華道具店に生まれました。
中学生の頃から画家の利根山光人に師事し、16歳から前衛美術展で知られる読売アンデパンダン展に油彩画を出品していたといいます。
高校卒業後は家業を手伝いながら絵画制作を続ける一方、19歳からは自身が草月流で華道を学んでいたこともあり、上越クリスタル硝子株式会社で花器のデザインに携わるようになりました。
20歳でガラス制作を始めますが、最初は多くの表現活動の一部だったものの30代になるとガラス制作が主体になり、花器だけでなく造形表現にも取り組むようになります。
社交的だったという益田芳徳は、若い頃から様々なジャンルの芸術家たちと交流を持ち、時には展覧会の企画なども行うようになりました。こうした経験が作品制作において自由な表現をもたらしたと言われています。
ちなみにガラスという素材は、陶芸の土のような風土的条件などがないので、作家の多くはガラス関係の企業に属しているか、その設備を借りて制作を行っていました。益田芳徳もその一人で上越クリスタル硝子の工場で30余年にわたって作品を制作しました。
1970年(昭和45年)には交流のあった陶芸家の八木一夫が結成した「走泥社」において、ガラス作家で初めての同人となります。
その後は前衛的な芸術家たちと交流を深めながら、ガラスにしか出来ない表現にこだわり続け、作品傾向がより一層抽象的になっていきました。
色の異なる数種類のガラスの種を合わせ、自在に引き伸ばして成形する技法を高める。抽象的な造形、光によって変化する神秘的な色彩。こうした作品はオブジェをはじめ、花器や茶道具など多彩です。
益田芳徳の作品は海外でも評価され、1981年(昭和56年)にカッセルで行われた「KASSEL'81-世界ガラス100人招待コンペ」に参加、1995年(平成7年)にニューヨーク高島屋にて個展を開催。そして2001年(平成13年)には作品をバチカンに謹呈するまでになります。
彼の制作したオブジェは国立近代美術館や国内外の美術館に所蔵されていますので、目にする機会があるかもしれませんね。
日本で発見された最も古いガラスは弥生時代のものと言われています。縄文時代末期の遺跡から発見されたガラスもあるようですが、日本で作られたものか不明なのだそうです。
弥生時代後期の遺跡からガラス炉や勾玉が見つかっており、2000年前には確実に日本でガラス製造が始まっていたと考えていいでしょう。
奈良時代までガラスは高級品として扱われ、上流階級を中心に利用されていました。
有名な正倉院の「瑠璃杯」など、日本製かつ高い技術で装飾されたガラスはごく一部しかなく、複雑な形状のものは海外からの輸入品だったそうです。
平安時代に陶器が多く使われるようになるとガラス製造は衰退してしまいました。
次にガラスが日本の歴史に登場するのは16世紀の室町時代後期です。
フランシスコ・ザビエルなどが日本を訪れた際、キリスト教と共にガラス工芸品が伝わったことをきっかけに、再びガラス製造が行われるようになりました。
江戸時代になると専門の職人も現れ、和ガラスと呼ばれ人気を博します。当時のガラスは非常に割れやすく、容器ではなく遊び道具や飾り物として使われました。
とても美しい日本のガラス工芸品ですが、近年の人手不足や働き手の高齢化、海外製品の台頭でまたもや衰退の一途を辿っているそうです。
びいどろや切子、風鈴、ガラス茶碗など日本の伝統工芸品を楽しめなくなる時代はすぐそこまで来ているのかもしれませんね。
いわの美術では益田芳徳の作品をお買取りしております。
箱やサインの有無、汚れやキズ、お品物の状態によって査定額が変わる場合がございます。
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益田芳徳のほか、ガラス工芸家として初の文化勲章を受章した藤田喬平、青森の伝統工芸品である津軽びいどろで知られる大川薫、日本の文化や歴史・伝統をガラスという西洋の素材と融合させた「現代の名工」黒木国昭など、記事でご紹介させて頂いた作家以外の作品もお買取りさせて頂いております。
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