写真のお品物は、熊谷守一の作品です。
画家のなかでも長命で、地位や名声に拘らず絵を描きつづけた熊谷守一は、多彩な作品を残しています。
画壇の仙人とも称された熊谷守一ですが、様々な逆境を超えて後年の境地に至りました。
1880年に岐阜県の、現在の中津川市にあたる恵那郡で生まれました。
紡績工場経営で成功した父は守一が9歳の時に初代岐阜市長に就任し、裕福な少年期を過ごします。
17歳で上京し岐阜中学校から港区の正則中学に転入した頃画家を志すようになり、1898年に本郷にあった共立美術学館へ入学し日本画を学びます。
共立美術学館の向かいの東京帝国工科大学で石膏デッサンを独学し、1900年に東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝や藤島武二らの教授を受けました。
しかし在学中の22歳のとき実家の父が急逝し、事業による借金から窮乏に陥ります。
24歳で東京美術学校を首席で卒業した1904年は日露戦争の最中で、樺太調査隊に写生係として参加し、帰京後は下宿を転々とする生活をしながら絵画制作を続けます。
この頃は雨戸を閉めた暗い室内で、蝋燭を光源とした「暗闇でのものの見え方」を研究に集中しており、第3回文展で初入選となった自画像「蝋燭」もこの時期の作品でした。
30歳のとき母危篤の報せをうけ帰京し、亡くなった後も労働に従事しながら計5年の滞在となり、その間は制作のペースを落としていました。
1915年に仲間の勧めもあり再上京、画業が波にのり1922年に結婚し、二男三女に恵まれます。
しかし幼くして次男を亡くし、二科技塾が開設され指導役となり生活状況が向上したものの三女も急逝、同年豊島区に住居兼アトリエを新築し、これが終の棲家となりました。
画壇での評価が安定し漸く絵による収入が十分となり、55歳となった熊谷守一の特集記事が中央美術で組まれ、この頃、輪郭線に赤を用いる作品を描き始めました。
1938年に銀座の日動画廊で野間仁根との二人展にはじまり、個展を多数開催し、そのうちの丸善名古屋支店での展示にて資産家であり美術蒐集家の木村定三の目に留まります。
画壇での注目が高まり1940年には熊谷守一生誕六十年記念特別陳列が二科展で行われるほどとなり、明治から昭和までの41点の展示はさらなる評価を呼びました。
この頃は写生旅行にも積極的に赴き精力的に活動しますが、戦局の悪化により二科会が解散、さらに病床にあった長女が1947年に亡くなります。
戦後、二科会メンバーにより再起された二紀会に一時傘下するも、1951年に脱退し以降団体展を離れて活動します。
個展のほか雑誌への寄稿、百貨店での個展や画廊のグループ展への出品が増え、1964年にはパリのダビット・エ・ガルニエ画廊で個展を開催し、守一本人は高齢につき妻と次女が代わって渡仏しました。
1967年には米寿記念展を開催し、同年世俗的な成功に拘らなかったことから文化勲章内示を辞退、5年後も勲三等叙勲を辞退しています。
画集の刊行や雑誌寄稿、個展は開催を続け、95歳記念展を1975年に開催した2年後、肺炎のため逝去されました。
長い画業のそれぞれの時期に名作を生み出した熊谷守一は、時代によって作風が異なります。
暗がりでの光の表現を追求した写実的な初期の絵に始まり、裸婦の表現を追求した時期を経て、徐々に陰影表現から赤い輪郭線が生まれます。
次第に形態の要点をとらえた簡潔な画面へ移行し、よく知られている明るい色調と快明な図案は、画家としての評価が確かなものになる70歳頃完成した作風でした。
守一の線と面の一見抽象的な絵は、現在も人気のある作品となっています。
また書作品も多く、こちらも真筆のものは中古美術市場でも高値のお取引が散見されます。
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