安藤 重兵衛 | あんどう じゅうべえ |
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旧名: 安藤 重三郎 | |
1876年(明治9年)-1953年(昭和28年)享年78歳 | |
七宝工芸家 |
安藤重兵衛は日本に残る数少ない七宝会社『安藤七宝店』の初代社長でした。
『幻の赤』と呼ばれる最高級の赤を表現するなど、色彩感覚に優れた七宝工芸家です。
安藤重兵衛は1876年煙管商の村田屋に安藤重三郎として誕生しましたが、翌年母と父が相次いで亡くなります。
1歳になってすぐ『安藤重兵衛』という名を父親から相続襲名しました。
安藤重兵衛には3人の姉がいて、そのうちの一人が安藤重左衛門(旧姓名: 前田松吉)を婿養子に迎えていました。
1880年、煙管商の村田屋は日本七宝製造会社の後を継ぎ、七宝焼の製作販売の事業に取り組むこととなります。
義兄の安藤重左衛門の全面的な後ろ盾の元、安藤重兵衛が安藤七宝店を創業したのは弱冠4歳の頃でした。
1900年には義兄の安藤重左衛門の協力もあり、安藤七宝店は宮内省御用達となります。
1901年、安藤重兵衛は自身初の海外経験としてイギリスのグラスゴー万国博覧会に出品し、安藤七宝店として金牌を受け取ります。
そしてそのまま2年間イギリスに滞在して知識と技術を磨きました。
帰国後には工房の指揮を取り、プロデューサーのような役割を務めました。
安藤重兵衛は色彩感覚に優れていたと伝えられています。
特に赤は『幻の赤』又は『ピジョンブラッド』とも呼ばれ、金の粒子が含まれた「赤透(あかすけ)」と呼ばれる安藤重兵衛の独自の釉薬が使われています。
釉薬中の金の粒子は10nmであれば赤、それより小さいと透明、大きいと金に見えるそうで、他にも温度や配合などに影響を受ける非常に繊細な技術だそうです。
安藤重兵衛の作品は海外の万国博覧会などに頻繁に出品され、高い評価を受けて販売されていきました。
これは当時の日本の外貨獲得の手段として重宝されましたが、安藤重兵衛の優れた作品のほとんどが国外に流出してしまいました。
七宝焼が中国から朝鮮半島を渡り日本に入ってきたのは奈良時代でしたが、一般には広まりませんでした。
開国して外貨が必要であった明治時代、オランダ船に大量の七宝焼の皿が積まれていたことから注目が集まります。
政府の支援の元日本での研究開発が進み、職人達も切磋琢磨した事により、世界レベルの七宝焼を産出することになりました。
特に明治中旬から大正初期までが日本の七宝焼の黄金期と言われています。
ところが、第一次世界大戦にて買い手を失い、第二次世界大戦によって材料が入手できなくなり、さらには空襲で工房もなくなってしまった事で七宝焼は衰退してしまいました。
戦後の復興と共に七宝焼の工房も再建されましたが、七宝焼の制作には非常にコストがかかり、外貨獲得の為に国が力を入れていた時代とは違い、現代の工房では黄金期のような綿密な七宝焼を作ることは難しいようです。
その状況を改善する為に、安藤重兵衛の晩年は七宝焼の復興に力を注いだと言われています。
日本の七宝焼の全盛期が明治~大正ですので、遺品整理や蔵の整頓などで出てくる可能性が高いのではないでしょうか?
当時の技術は今では再現が難しいので、精巧な物は非常に高額が期待できます。
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また、精巧な七宝焼であれば粂野締太郎や、日本に七宝焼が伝わる前の中国での作品の可能性もあり、こちらも高額でのお買取りが期待できますので、まずはお問い合わせ下さい。
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