近江大掾忠廣・藤原忠広の刀をお買取りいたします。
写真のお品物は、いわの美術でお買取りいたしました藤原忠広の打刀です。
藤原忠広は別名・近江大掾忠廣ともいい、抜群の切れ味を誇った肥前刀・忠吉一門の刀工です。
鍋島藩のお抱え刀工として名刀を多数残し、子孫や門下生を刀工として育て、肥前国刀鍛冶を隆盛へと導きました。
藤原忠広(ふじわらただひろ)は肥前国の刀工として江戸時代初期に活躍しました。
1614年に初代忠吉(ただよし)の妾腹の末子として生まれ、父の逝去に伴い若干19歳で家督を継ぎます。
父の初代忠吉は本名を橋本新左衛門といい、生まれは肥前国の武家でした。
しかし13歳のときに当主である父・道弘と祖父・盛弘、ならびに藩主の龍造寺隆信が沖田畷の戦いで死没します。
元服前にお家断絶となったことから刀工へ転身し、龍造寺家に代わり藩主となった鍋島家の命によって山城国へ赴き、刀工・埋忠明寿に入門しました。
3年の修行で秘伝の技を伝授され肥前へ戻り、藩お抱え刀工として忠吉一門の開祖となりました。
二代目となる忠広は、忠吉帰郷の15年後の生誕と遅く生まれた末子でしたが、忠吉・忠広ともに古刀期の山城国・来一門に私淑し、直刃を特徴とした肥前刀を完成させます。
初代忠吉は1632年に没し、忠広は1641年に近江大掾(おうみだいじょう)を受領、以降は近江大掾忠廣とも名乗りました。
作刀期間は60年にも及び、忠吉一門の肥前刀のなかで最も多くの作が残されています。享年80歳で没し、肥前忠吉派の系譜は長男の三代忠吉、次男の鉄砲鍛冶新兵衛、三男の忠行、以降幕末から明治に至る九代忠吉まで受け継がれています。
初代忠吉の弟は土佐守忠吉として活躍し、忠広は敬意を表し二代目を継ぎながらも終生「忠廣」銘のみを使用しました。
忠吉一門は最上大業物に数えられる刀工を二名輩出し、地鉄の美しい肥前ならではの名刀を多数残しています。
今回ご紹介いたしました近江大掾忠廣・藤原忠広は、長命だったこともあり最も多くの作刀を行い、現存数も比較的多数となっています。
また刀装具にも見応えがあり、金工により意匠の凝らされた鍔をはじめ、縁にも模様がみられ、柄は鮫革とみられるカイラギ様の凹凸が侘びた魅力を放っています。
目貫は人気モチーフであった這い龍で、波打つ体に背の上を振り返る頭となっています。
経年劣化しやすいと言われる柄巻は後年取り換えられているようですが、刀装具にも価値のある刀剣として、高評価につながりました。
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