小山富士夫の作品の中でも大変人気の高い花盃で、宋赤絵をアレンジした鮮やかで美しい作品となっています。
小山 冨士夫 | こやま ふじお |
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1900年~1975年 | |
陶磁器研究家、陶芸家 | |
雅号 | 古山子 |
受章 |
勲三等瑞宝章 神奈川文化章 |
就任 |
和光大学教授 日本陶磁協会理事 東洋陶磁学会常任委員長 |
小山 冨士夫は『永仁の壷事件』(1960年)の責任を負った悲劇の文部技官として世間を揺るがせました。
引責辞任後も陶磁研究の第一人者として活躍し、陶芸家としても素晴らしい作品を残しています。
小山富士夫は、家族の影響で敬虔なキリスト教徒(クエーカー教徒)であり、非常に優しく平等主義と慈愛の精神が強かったようです。
一橋大学に入るも社会主義思想に影響を受け中退し、カムチャッカ沖の蟹工船での過酷な労働に挑戦しました。
3ヶ月後、関東大震災の知らせを受けて、教会が行う被害者救済事業への参加の為に急遽帰国します。
帰路の船で出会った貧しい老人に蟹工船の稼ぎを全てあげてしまうような懐の大きい人であったようです。
1年志願兵として入隊した時に陶器好きの岡部長世と出会い、陶芸を始めるきっかけとなりました。
初めは陶芸家を目指した小山富士夫でしたが、30歳の頃に古陶磁研究に傾倒していき、東洋陶磁研究所所員として働き始め、1949年には文部技官となりました。
中国河北省定県で宋代の美しい白磁を生み出した幻の定窯古窯址の発見や、日本六古窯の再発見など素晴らしい功績を残しています。
文化財専門審議会委員であった小山富士夫が積極的に支持して1959年に重要文化財に指定された『永仁の壺』が、贋作であることが判明し1961年に指定解除された事件です。
1923年に一度、小山富士夫がこの瓶子(へいし)の存在を知りました。
銘入り陶器としては日本最古となる『永仁2年』(1294年)の銘が入っており、この時瓶子は2本セットで1対でした。
小山富士夫は重要美術品として認定することを推薦しますが、この時は叶いませんでした。
1959年に瓶子の1本が紛失していることが判明し、海外流出を恐れた小山富士夫が重要文化財指定に急いだことが裏目に出てしまいました。
1961年の科学分析の結果偽物であることが証明され、『永仁の壺』の重要文化財指定解除、小山富士夫は文化財保護委員会を引責辞任しました。
小山富士夫はこの後も陶芸界に大きく寄与し、国内外の陶器の研究や執筆活動、数々の陶芸展の企画に関わりました。
1964年には自宅で本格的に作陶を開始し、2年後自宅に『永福窯』、1972年には岐阜県土岐市に『花の木窯』を築窯するなど制作にも楽しんで取り組み、個性豊かな作品を生み出し続けました。
小山富士夫の作品は初期の作品よりも、のびのびと自由に作成された晩年の作品のほうがより高く評価されています。
小山富士夫は世界の陶器の知識が豊富な上に、『窯場あらし』と称して日本各地の陶芸家の窯場を借りて作陶を行ったことでも有名です。
その為作風が多岐に渡るので、その作品の芸術性でも価格が大きく変動いたします。
価格査定をご希望の場合は、写真を添付されるとより正確な価格を知ることができます。
また、共箱や鑑定書がありますとプラス査定となりますので、必ず一緒にお出し下さい。
先代やご自身が収集されたお品や、譲り受けた小山冨士夫の作品のご売却をお考えの場合はいわの美術までお問い合わせ下さい。
今回お買取りの小山富士夫『宋赤絵風花酒觴 花盃』は、大変人気の高い花盃であり、作品の状態も良く、更に共箱付であったので高額買取とさせていただきました。
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