十二代田原陶兵衛は萩焼の第一人者で、昭和後期から平成にかけて活躍した陶芸家です。
高麗朝鮮陶器を研究して茶道への造詣を深め、陶兵衛粉引と呼ばれる化粧掛けや灰被りを得意とし独自の作風を作り上げました。
萩焼とは山口県萩市を中心に作られるやきものですが、萩焼の歴史を辿っていくと豊臣秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」まで遡ります。
当時は戦国武将や千利休によって茶の湯が大きく発展し、茶器の需要も高まりました。特に高麗茶碗は珍重されたそうで、遠征の際は技芸ある陶工の招致が指令され、出陣した西国大名たちは多くの朝鮮の陶工を日本に連れ帰りました。その中に萩焼の始祖となる李勺光がいたのです。
李勺光、弟の李敬らを中心とした陶工たちは豊臣政権五大老のひとりである毛利輝元に預けられました。
その後関ヶ原の戦いに破れ、領地を削られた毛利氏は広島から萩へ移封され、これに伴って李兄弟らも移住することになり、萩城下東郊の松本に藩の御用窯を開いたのが萩焼の始まりと言われています。
田原家は李勺光の高弟として共に広島から萩に移住し、藩の御用窯を開いた松本ノ介左衛門を始祖とし、三之瀬焼物所開窯者のひとりである赤川助左衛門を初代として、現在は十三代目の田原陶兵衛がその名跡を継承しています。
焼き締りの少ないざんぐりと柔らかな土には吸水性があり、長年使い続けることで茶や酒が浸透し、茶碗の色彩が変化することが大きな特徴かと思います。
変化する景色の美しさが見所となり、茶人たちの間で「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれ、愛でられてきました。
茶道具として親しまれることの多い萩焼は、形や装飾が簡素で絵付けされることが少なく、土の配合や釉薬のかけ具合、ヘラ目、登窯での焼成による作用などで多様な表情が生み出されます。
萩焼特有の味を出すためには土も非常に大切で、萩焼の主要原土で砂礫の多い白色粘土の大道土、日本海に浮かぶ離島・見島で採取される鉄分の多い赤黒色土の見島土、萩の東方で採取される細かな砂質の白色土の金峯土があり、特徴を考慮し作品に合うように混ぜて胎土を作るのだそうです。
茶碗の胴や腰を乗せている輪の部分を高台と言いますが、これも萩焼には特徴があり、一部を切り取った「切り高台」などが広く知られているのではないでしょうか。もちろん萩焼に限った手法ではないですし、必ずしも切り取ってあるわけではありません。
しかし、茶陶として発展した萩焼は、茶碗の見所のひとつである高台に造形的表現を追求し、それが印象的だったことで特徴とされるようになったのでしょう。
諸説ありますが、いつからか「庶民が使う事を許すためにわざと切り込みを入れた」という御用窯らしい謂れもあり、これも“萩焼=切り込みの入った高台”と思われる一因になったのかもしれません。
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十二代田原陶兵衛のほか、「泥華井戸」と称されるおおらかで伸びのある独自の優雅な作風を確立した坂田泥華、萩焼の伝統を受け継ぎながらも「休雪白」を編み出し、古くからの技法である「鬼萩」を自らの技法へと昇華させた十一代三輪休雪(壽雪)、萩焼を全国に広めて不振衰退から救ったことにより「萩焼中興の祖」と呼ばれる十二代坂倉新兵衛など、記事でご紹介させて頂いた作家以外の作品もお買取りさせて頂いております。
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