いわの美術では以前、高村光太郎作品のお買取り致しました。
弊社では高村光太郎直筆ハガキ 松下英麿宛のお買取りを強化いたしております。
高村光太郎は教科書によく載せられるほど有名で、最近ですと某ソーシャルゲーム作品に起用されるほどです。
今回お買取りを強化しているこの作品は評論家、本間美術館常任理事松下英麿(まつした えいまろ)宛に書かれたおハガキです。
高村光太郎直筆ハガキ 松下英麿宛のご売却をお考えの方は、いわの美術までご一報ください!
高村光太郎(たかむらこうたろう)は彫刻家でありながら洋画家、詩人、歌人でもあったりと広い分野でその非凡な才能を発揮した芸術家であります。
本名は光太郎と書き「みつたろう」と読みます。
上野恩賜公園に今も飾られている西郷隆盛像はあまりにも有名ですが、この像を制作された彫刻家、高村光雲(たかむらこううん)のご子息でもあります。
高村光太郎は1883年(明治16年)、東京都台東区(当時東京府東京市)で高村光雲の第一子として生まれました。
1896年(明治29年)、共立美術学館予備科に途中から入学し、翌年8月、共立美術学館予備科卒業。
1897年(明治30年)9月、東京芸術大学美術学部(当時の東京美術学校)彫刻家に入学。この当時から文学にも興味を持っていた高村光太郎は大学時代、与謝野晶子の夫で歌人でもある与謝野鉄幹の新詩社の同人となり「明星」に寄稿しました。
1906年(明治39年)よりアメリカのニューヨークに1年間、その後すぐイギリスのロンドンに1年間、パリに9か月間留学し、1909年(明治42年)に帰国しました。
帰国後の高村光太郎は、日本の美術界の変化の無さに不満を持つようになり、ことあるごとに父高村光雲と対立し東京美術学校の教職の誘いも断り、自らの美術を追い求めるようになりました。
1910年(明治43年)、高村光太郎は心のままに色彩を用いる、いわば自由を宣言した評論として「緑色の太陽」を発表し、1912年(明治45年)には、東京都文京区の駒込にアトリエを設計しました。
同年、父親がジャーナリスト岸田吟香(きしだ ぎんこう)である洋画家岸田劉生(きしだ りゅうせい)らと美術家集団「ヒュウザン会」を結成し第1回ヒュウザン会展に油絵を出品します。
書籍や絵画にとどまらず、33歳では裸婦坐像、35歳では手というブロンズ作品を作り上げるなど芸術の世界でも幅広く活躍しました。
晩年は、自宅兼アトリエで作品を作り続けた高村光太郎ですが、肺結核のため73歳でこの世を去りました。
高村光太郎の命日4月2日は、高村光太郎が連翹(れんぎょう)の花が好きだったことから、連翹忌と呼ばれております。
高村光太郎の作品は人気が高く、高価お買取りが期待できます。
特に肉筆のハガキ、原稿はかなり人気あり、価値が高くなっております。
書画の作品は作品名・大きさ・エディションナンバー・保証書の有無で評価額が大きく変わります。
おハガキは、弊社の専門の査定員が丁寧に、迅速に査定いたします。
お問い合わせはお電話か、メールにてお受けいたしております。
高村光太郎直筆ハガキ 松下英麿宛のご売却をお考えの方は、是非一度いわの美術までお問い合わせください。