写真のお品物は、いわの美術でお買取りいたしました林武の肉筆油彩画、「卓上の静物」です。
林武は鮮やかな色彩と豪胆な筆致や構図で異彩を放ち、多くの画家に影響を与えた日本洋画界の重要人物であり人気の画家の一人です。
林武は東京都にて1896年に6人兄弟の末子として生まれました。
父は国学者、祖父は歌人、曾祖父は水戸派の国学者という文化的な家庭でしたが、大学教員であった父・甕臣(みかおみ)は言文一致運動を唱道するなどして家庭を顧みず、林武も兄弟とともに幼い頃から家計を担う労働に従事していました。
小学校の同級生であった東郷青児とともに教師から画才を見出され後に画家として同じ世界へ入りますが、1910年に早稲田実業学校に入学してからも家計を支える重労働を学業と並行して行い、過労に倒れ退学する憂き目に遭います。
その後、歯科医を目指し東京歯科医学校へ進学するものの、しだいに関心は文学や絵画へ向きはじめ、自ら働いて得た学資金をもとに1920年に東京美術学校へ転学しました。
念願の美術の道へ入ってからも、学校には物足りなさを感じたのか早くも翌年退学し、この年は渡辺幹子と結婚し、妻をモデルとした「婦人像」で第8回二科展に初入選し樗牛賞を受けます。
二科展への出品を中心としながら1923年に萬鉄五郎を中心に結成された円鳥会展にも参加し、中心メンバーであった前田寛治、児島善三郎、恩地孝四郎らと語り美術論を戦わせる時期となります。
画壇においてもっとも精鋭であるという自信を築き、1926年に1930年協会に入り前田のほか木下孝則、里見勝蔵、佐伯佑三、児玉善太郎らと活動を共にしたのち、自然消滅しつつある会から1930年に脱退、独立美術協会の創立に携わります。
独立美術協会は生涯にわたる活躍の場となり、他の創立メンバーとともに林武も多くの後進の画家に多大な影響を与えます。
1934年に門司港から靖国丸で出港し念願の渡欧を果たすと、パリのアトリエを制作拠点にしながらベルギー、オランダ、イギリス、ドイツ、スペインを巡り多くのヨーロッパ美術に触れました。
ドランやマティスらのフォーヴィズムの力強さに惹かれ、セザンヌやキュビズムの構図力を取り入れながら、自身の画風をより大胆なものに完成させていき、1937年には滞欧作展を開きます。
この頃制作した重厚なマチエールの女性像は戦後期の代表作となり、1949年に「梳る女」で第一回毎日美術賞を受賞しました。
1952年に安井曾太郎の後任として東京大学美術学部の教授に就任し、1963年の定年まで勤めながら油彩画で活躍する画家を何人も送り出します。
1960年に2度目の渡仏を果たすとプロヴァンスに滞在して1年あまりの期間を過ごし、帰国後晩年の作品は原色の女性像のほか富士山、薔薇などの花の静物画を強烈な色彩と筆致で描き続けました。
絵画と教育での実績から1967年に文化勲章を受章するに至った一方で、熱心な国学者であった亡き父の遺志を継ぎ国語問題協議会会長としても活躍し、正かな使いの復権を説く「国語の建設」を刊行するなど、1975年に逝去するまで多岐に渡る活躍をみせました。
林武の作品は時代によって作風の変遷があり、昨今は1940年代頃の簡潔な表現の作品の再評価の機運が高まりつつありますが、多くのファンを獲得した戦後の厚く塗った重厚で豪華絢爛なマチエールは現在も市場で高い人気を誇っています。
後期には富士山などの風景画、花の静物画を多数制作し、これら人気のモチーフは中古市場でも高値のお取引が散見され、写真のお品物も高評価でのお買取りとなりました。
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