写真のお品物は、先日いわの美術でお買取りしました二代田辺竹雲斎の竹籠です。
明治時代に大阪で始まった竹工芸の名工・田辺竹雲斎は、代々質の高い作品を生み続け、現在は4代目が襲名し120年あまり続いています。
明治以降、竹細工を芸術の域にまで高めた竹工芸の名匠が居並ぶ中、ひときわ繊細で完璧な構成を見せた作品を残したのが二代田辺竹雲斎でした。
竹はアジアのみに生息し、アジア各地に竹工芸の伝統がみられます。
日常生活に密接な道具として普及した半面、竹を芸術の域まで高めた地域は少なく、日本の竹工芸は特殊な進化を辿ってきました。
大阪の煎茶文化と竹細工
竹工芸の発展に最初に寄与したのは、中国から伝来した煎茶文化です。
江戸時代中期、宇治の永谷宗円が煎茶の茶葉の製法を確立し、京都で売茶翁が煎茶の普及活動を続け、大阪港から海路で全国に煎茶が流通し、江戸末期までに日本中に煎茶の習慣が定着しました。
上方では文人文化が花開き、当時の京都では絵師の伊東若冲、池大雅、俳人の与謝蕪村らが煎茶を愉しんだとされています。
煎茶流行の基底には中国文化への憧れがあり、煎茶の席で花を観賞するための竹の花籠も、はじめは唐物写しをつくることが第一とされました。
江戸末期まで煎茶・漢詩・書画から中国への憧れを醸成した日本が開国して見えた中国は、アヘン戦争や太平天国の乱など度重なる内外の戦争に疲弊し、理想とかけ離れたものとなっていました。
中国文化への憧れが失われていく中、煎茶道具の唐物好みは衰退し、すでに定着した煎茶習慣でもちいる道具は日本独自の美しさを目指すよう変化していきます。
欧米での日本の竹工芸
幕末明治の遷都後も、富裕な町人に支えられて大阪は煎茶文化の中心であり続けました。
竹工芸・竹細工は煎茶愛好家の支持を得て芸術の域へ到達し、この頃日本を遊歴した英国の工業デザイナーであるクリストファー・ドレッサーは、日本の竹籠をコレクションする最初の外国人となりました。
クリストファー・ドレッサーは日本の竹籠を美術作品として評価して広く海外へ知らせ、1870年代から日本の竹工芸は盛んに輸出され、外貨獲得の重要な役割を担いました。
明治政府は万国博覧会に出品する美術工芸品を選抜するため内国勧業博覧会を開催し、竹工芸家はこれに応募し、新たな評価の獲得と販路の拡大に取り組みます。
内国博での受賞は宮内省・外務省・名家から注文につながり、これにより成功を収めた竹工芸家には一世早川尚古斎、初代和田和一斎らがいます。
そして田辺竹雲斎は、初代和田和一斎に入門し自らの一派を成していきます。
田辺竹雲斎(たなべ ちくうんさい)は、明治時代から4代続く竹細工の名工です。
大阪尼崎藩松平氏の御典医田辺家の三男として生まれた初代田辺竹雲斎は、幼少期に近所の竹細工師の仕事に興味をもち、12才で大阪の初代和田和一斎(わだ わいちさい)に弟子入りしました。
11年の修行生活では華道と煎茶道も習得し、師のもう一つの号であった「竹雲斎」を賜り1901年に独立しました。
1903年の第5回内国勧業博覧会に出品し三等賞銅牌を獲得し、数々の博覧会で受賞を重ね竹工芸界の重鎮となります。
弟子や職人を多数抱え後進の育成にも尽力し、輸出用の生産も手掛ける一方で芸術性を求め続け、1911年に美術家の多く住まう堺に居を移しました。
工芸から芸術への進化を求めるなか、江戸後期の文人画家・柳沢淇園の花籠の作品に出合い、柳沢淇園のもう一つの号である柳里恭(りゅうりきょう)の名をとった「柳里恭式花籠」を制作します。
花を引き立てる上品で独創的な花籠は華道に通じる初代竹雲斎ならではの作品と言え、1914年の天皇陛下行幸の際に買上げとなる栄誉を受けます。
柳里恭式花籠と並んで、古矢竹を大胆に用いる作品も初代田辺竹雲斎の看板作品となり、現在まで田辺竹雲斎作品の代表格として、他に類を見ない存在感を放っています。
1925年にパリ万国博覧会で銅賞を獲得、1937年には時代を継ぐ二代目との父子展を東京三越で開催し、同年60歳で逝去されました。
1910年に初代田辺竹雲斎の長男として生まれ、幼少から竹細工に親しみ、5歳にして父の個展で竹を編む実演を行い、周囲を驚かせる素養の持ち主でした。
15歳で初個展を開き、21歳で出品した第12回帝展にて「播龍図盆」が初入選し、以降は帝展・文展・日展に毎年出品し入賞を重ねます。
国の主催する展覧会での入賞によって、皇室や諸宮家の御用達となり優れた作品を生み、工芸の新たな販路となる百貨店での展示・販売にも注力しました。
1937年、父の逝去に伴い二代田辺竹雲斎を襲名、東京・大阪・名古屋の高島屋で襲名記念展を開催します。
同じ年にニューヨーク万国博、日本現代美術アメリカ展、ベルリン国際工芸展にも出品し、初代につづき海外での活路を切り開いていきます。
しかし時代が第二次世界大戦へと進み、堺市から河内長野へ疎開を余儀なくされ、二代田辺竹雲斎自身も1年従軍します。
復員後まもなく竹工芸を再開しますが、米国化する戦後復興期にプラスチックの日用品が台頭し、日用の竹製品の需要は著しく落ちこみ、竹工芸は美術工芸品としての性格を強めていきます。
戦前の帝展は日展へと変わり、美術を競う日展での受賞を目指すために、竹工芸も実用より美術的な造形美を求め変化する時代が到来しました。
再び堺市に戻り円熟期に突入した二代田辺竹雲斎は、亀甲編みと鱗編みを中心に独自の透かし編み技法を磨き、1952年の第8回日展で「螺旋紋花籠」が朝倉賞を受賞します。
翌年から関西総合美術展審査員をつとめ、1959年に大阪府芸術賞受賞、1960年から3度日展審査員となり、1976年には同評議員を歴任し、1973年に堺市功労賞を受賞しています。
国外での展覧も精力的に行い、1960年代から欧州やアメリカ巡回の日本工芸展、ベルリン芸術祭とニューヨーク芸術祭などに出品します。
国内では個展に加え1970年の大阪高島屋での父子展や、初代からの竹雲斎三代展を開催し、1981年に勲四等瑞宝章、翌翌年に紺綬褒章受章となりました。
1985年の「竹の工芸近代に於ける展開」展に父子で出品して以降、活躍の中心を次代の田辺小竹(のちの三代田辺竹雲斎)へ譲る形となり、2000年に89歳で逝去されました。
初代竹雲斎は、中国への憧れを基底とする煎茶文化のなかで制作をスタートし、唐物写しから始めた端正で格調高い造形と、のちに加わる古矢竹の荒い独自の表現を二本柱としました。
続く二代竹雲斎もまた、透かし編みによる繊細で精緻な作品とともに、煤竹の荒編みによる力強い新たな造形も生み出し、伝統と革新を備える田辺家の礎を築いたと言えるでしょう。
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