『屋根の版画家』と呼ばれる寺司勝次郎による「由布の詩」 ‘92 です。
大分県産米『大分ひのひかり』のパッケージに採用されるなど、知名度が高い作品となっています。
寺司勝次郎は1927年(昭和2年)に大分で呉服屋を営む家の次男として生まれ育ちます。
苦労人であった父親の呉服屋は繁盛しており、しつけにはとても厳しかったそうです。
寺司勝次郎は絵が好きで画家になりたかったのですが、15歳の時に父親に告げると「ばかもの!絵描きのような極道者になるつもりか!絶対に許さん!」と反対され断念します。
次に憧れたのがゼロ戦で大空を自由に飛ぶことです。
今度は父親の反対を押し切り、16歳の少年兵として海軍航空隊へ入隊することになりました。
厳しい訓練をこなし、母が面会に訪れた時は自分の戦死を想定した位牌用の写真を撮影し、念願の飛行訓練を経て、敵に機体ごと突っ込む特攻隊に選ばれます。
しかし訓練期間に病気で倒れ強制入院、そのまま終戦となりました。
大分に帰り大分経済専門学校(現・大分大学経済学部)に復員軍人向けのプログラムで途中編入し勉学に励みました。
在学中に、それまで見たことがなかった油絵というものを描いている学生に出会い、再び絵画に興味が湧きます。
仲間も出来て絵画部を創設するに至り、この時から油絵を描き始めました。
卒業後は経営難となっていた家業を手伝いますが、安定を求めて1954年(昭和29年)27歳の時に銀行員となります。
またこの頃、妹が高校の宿題で年賀版画コンクールに向けた木版画を作っているのを見て、面白そうだったので自分や他の家族も制作し応募しました。
すると5人中 自身を含む3人が入賞し、版画一家として新聞に取材・掲載され、ここから油絵よりコスパが良いこともあり木版画に転向します。
木版画を始めて10年後、毎年出品していた県美展の締め切りまで1週間しかないことを知り、白黒のみの版画にせざるを得なかった作品『十六夜』(いざよい)で日田市長賞を受賞、これが屋根をテーマに描いた最初の作品となりました。
翌年は度胸試しで初出品した日展で『夏の屋根』が入選となり、ここで自身の作風が定まり『屋根の版画家』になる決心をしました。
以後も何度か日展の入選を重ねますが、展示場の展示エリアの縮小で入賞作品が実質2割減となり、派閥の力も強く、独学の寺司勝次郎はしばらく入賞から遠ざかります。
そんな中、国外に目を向けるようにアドバイスを受け、1976年スペイン美術賞バルセロナ展で優秀賞、スイス美術賞展でも優秀賞を受賞となり、日本での評価も引き上げる形となりました。
またこの少し前から銀行関係の仕事を退職し、念願であった版画家生活が始まります。
そして日展などの国内展では10回、海外展では51回 受賞しました。
60歳の誕生日には、それまで約400点の作品を制作していましたが、80歳までに1000点にする目標を立てます。
そして80歳で見事1000作目を完成させ、『屋根の版画1000点達成記念展』(2007年)を開催しました。
2015年、87歳で穏やかに最後を迎えられたそうです。
寺司勝次郎はとても面倒見が良く人たらしであったそうです。
一方で過酷な戦争体験者であり、自己犠牲が良しとされた世代でもあります。
寺司勝次郎の描く絵は、九州の温暖な風土のような優しさや懐かしさを感じさせる反面、無駄な物は徹底的に排除し構造が引き締められています。
この柔らかさと凛々しさのバランスが素晴らしく、その独自の感性で日本の屋根や瓦の造詣を表現しました。
現在も国内外で高い人気を保ち続けています。
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