いわの美術では現在、豊原国周 『一谷嫩軍記 須磨浦の段』のお買取りを強化いたしております。
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豊原国周(とよはら くにちか)は江戸幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。
1835年(天保6年)に江戸京橋・五郎兵衛町の湯屋・大島屋九十郎の第二子として生まれます。
浮世絵師である豊原周信および歌川国貞の弟子として浮世絵を学んだ豊原国周は、師匠への恩義の気持ちを忘れないように、画姓を豊原、名を国周としました。
幼いころから、当時の浮世絵師によって多数描かれた語呂合わせ遊びである地口と絵を行灯に描いた「地口行灯(じくちあんどん)」の制作を手伝うなどしてその画才を発揮しておりました。
その後、兄である長吉が押絵屋を南伝馬町にて開いたことをきっかけに、羽子板押絵の原図制作に着手し、桃山時代から江戸時代にかけての長谷川等伯を祖とする「長谷川派」の豊原周信を師として役者似顔の研究にも励みました。
また、数奇屋河岸にある羽子板問屋明林堂から仕事の依頼を受けたこともあった事から、豊原国周が描く役者絵の評価は高かったといえます。
その後も、歌舞伎役者や遊女、評判の町娘などを半身絵や胸像として捉えて描いた浮世絵版画「役者似顔大首絵」を数多く制作した事で「役者絵の国周」として認知されるようになりました。
様々な浮世絵を描きあげた豊原国周の元には、多くの門人が存在したといわれており、特に活躍したのは守川周重と楊洲周延の2人のみであります。
そのほかに湯川周麿、五橋楼周芳、豊原周春、豊原周里、柳斎周秀、周幸、歌川国松、豊原周義、三代目歌川国輝、周季、周峰がおり、また、歌川和哥が門人であったと推定されております。
多くの門人を抱え人生の大半を画業につぎ込んだ豊原国周ですが、これからの活躍が期待されていたものの、66歳という若さでこの世を去りました。
「柴田勝家 (五代目)尾上菊五郎」、「東京三十六会席」、「当世形浴衣揃 不破伴左衛門(9代目)市川團十郎」、「市川団十郎演芸百番」、「梅幸百種之内」、「開花人情鏡」、「潤色三十六花撰」、「め組の喧嘩図」、「芸妓と遊女図」、「酒造り一式の図」。
平清盛の亡くなった後、源氏と平家の合戦、歌舞伎演目の一場面を描いたもの。一の谷の合戦で敗北し、西国に逃げのびようとする平家の若年の武将平敦盛と、源氏の武士熊谷直美の悲劇を描いた作品。
源氏方の武士平山武者所を捜索していた平敦盛は、敵を見失い須磨浦の波打ち際に出て、沖にいる味方の船に追いつこうとしていたところを熊谷直美が見つけ、戦となります。熊谷直美が戦相手の顔を見ると、息子と同じ年ごろでありました。同情した熊谷直美は見逃そうとしますが周囲は味方が大勢いる緊迫下であり、泣く泣く平敦盛の首を討ち取りました。
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豊原国周の作品では二枚続・三枚続の役者の半身、七分胸像、一人立ちの作品ですとさらに高価お買取りができます。
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