熊谷 守一 | くまがい もりかず |
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1880(明治13)年-1977(昭和52)年 | |
受章 | 勲三等(辞退)、文化勲章(辞退) |
著書 | へたも絵のうち |
『画壇の仙人』との異名を持つ熊谷守一は、その常識に囚われない生き様が映画化される程の伝説の画家です。
外出しなかった晩年の30年は、自宅の庭の観察のみでモチーフは尽きることはなく、『熊谷様式』『守一様式』と呼ばれる唯一無二の画風で生命力溢れる作品を生み出し続けました。
熊谷守一は一代で富を築いた熊谷孫六郎の第七子として生まれました。
3歳の時に母親から引き離され、父親・その妾2人・大勢の子供達と一緒に暮らしました。
複雑な家庭環境に置かれた熊谷守一は、大人をあまり信用しないような子供であったようですが、その反動なのか子供や生き物に博愛的な深い情を持つようになりました。
その後、父親の跡取りになって欲しいという期待に反して、熊谷守一は絵の道へ進みます。
東京美術学校で学び、夏休みには写生旅行に行くなど学生生活を楽しんでいましたが、父親が多額の借金を残して急死し貧乏生活が始まりました。
貧しいながらも24歳で東京美術学校を首席卒業し、当時の画家の中でも突出した存在だったようです。
実母の危篤で岐阜県に帰郷し、そのまま5年間滞在していた熊谷守一は、ほとんど絵を描かずに伐採などの仕事をしていました。
しかし、熊谷守一の才能を惜しむ仲間の声に押され、35歳で再び上京し画家生活を送ります。
その生活は貧しかったですが熊谷守一にとって苦になることではなく、毎日を楽しみ交友を広め、二科展で高評価を得るなど充実した画家生活でした。
42歳で結婚し子供が次々と生まれましたが、熊谷家の生活は困窮を極めます。
3人の子供が全員高熱でもお金がなく医者に診せることができません。
お金を作る為に絵を描いて欲しいと妻は懇願しますが、人一倍愛情深い熊谷守一は苦しむ我が子が心配で絵など書けず、ついには3人のうち次男が死んでしまいました。
その亡くなったばかりの次男の死顔を絵にしたのは、熊谷守一なりの供養の方法であったのかもしれません。その絵は『陽の死んだ日』という名作です。
四年後にも生まれたばかりの三女が病死し、この頃から熊谷守一の画風は独特の変化を始めました。
更に15年後は長女が21歳の若さで結核で亡くなってしまいました。この時の様子を描いた『ヤキバノカエリ』では、子供を失った悲しみが静かにじわじわと伝わる作品です。
この時熊谷守一は67歳で、究極まで単純化したフォルムを太い線で描き、その線の中に絵の具を塗り込む、という『熊谷様式』『守一様式』の画風が確立していました。
76歳の時に軽い脳卒中を起こしたことをきっかけに、自宅から外出しなくなりました。
しかしながら交流は盛んで、妻と二人暮らす家には毎日様々な訪問客で賑わっていたそうです。
後に勲三等や文化勲章を辞退した理由も、これ以上来客があっては困る、といった理由でした。
そのような忙しい中、絵を描くのは夜で、モチーフは自宅の庭で植物や生き物や石など枯れることのない好奇心で観察していたそうです。
この日常は『モリのいる場所』(2018年)として映画化されています。
熊谷守一の作品は、晩年の熊谷様式の作品が人気ですが、熊谷様式以前の作品も評価が高い作品が多数あります。
版画は発行数が限られている、肉筆サインがある、といった作品のほうが価格が上がり、肉筆画は更に希少価値で高価買取が期待できます。
作品の状態によっても価格は大きく変動するので、保管には十分お気をつけ下さい。
破損や痛みが見られる場合は、修復前にまずはご相談下さいませ。
いわの美術では熊谷守一の版画作品のお買取りをいたしております。
お引越しでの荷物の整理や、出番がなく倉庫に眠っている熊谷守一の作品がございましたら、いわの美術までお尋ね下さい。
今回お買取りした『新神楽』(牡丹の品種)と『干し大根』は自宅の庭にある植物をモチーフにした晩年の熊谷式の鮮やかな作品です。
共に300枚限定の木版画で、サインはありませんが落款が入っており、状態が非常に良かったので高額でのお買取りとなりました。
いわの美術では熊谷守一の買取実績が豊富で、現在特に力を入れています。
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作品の状態によって価格が大きく変動しますので、状態が判る写真をWEBやLINEで送信して頂くと、より正確な査定をお知らせすることができます。
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スタッフ一同お待ちいたしております。