山本雲渓(やまもと うんけい)は近世伊予絵画界の勃興に携わった絵師の一人で、一族代々伝わる医師を生業としながら絵師としても活躍した名士でした。
故郷の愛媛県今治市の寺社には現在も多くの絵馬が奉納されています。
伊予松山藩での絵画は、江戸前期に雲谷派を伝えた松本山雪に始まります。
雲谷派とは、雪舟の死後90年あまり途絶えていた雪舟画を、萩の毛利藩絵師・雲谷等顔が復興させた流派です。
雲谷等顔は毛利輝元から禄高と雪舟の旧居「雲谷庵」を与えられ、雪舟と直接的な師弟関係は無くとも正統な後継と見做され、雲谷派は江戸時代を通じて中国・九州地方で存続しました。
江戸中期に松山藩士であり絵師でもあった吉田蔵澤が南画を取り入れてからは、全国の藩絵師の主流であった狩野派よりも、伊予では南画が主流に取って代りました。
その後に写生派の正系・円山派を伊予に持ち込んだのが山本雲渓であり、これは新風となって伊代絵画界で受け入れられ、後続の森田樵眠のもたらす同じ写生派の四条派の普及に繋がっていきます。
山本雲渓は1780年に松山藩の庄屋に生まれ幼少期に藩内の野間郡から今治郡へ移住し、医術を学ぶため大阪へ上った寛政年間に絵画を学んだと伝えられています。
大阪で師事したとされる森祖仙は、ボストン美術館に作品5点が収蔵される名画家で、動物画を得意としてた中でも現存する作品の9割が猿の絵であり、作風の面でも山本雲渓に大きな影響を与えたと言えます。
文政期(1818年~)に入ると生まれ故郷の野間神社に奉納した絵馬に始まり、今治地方の神社に多数の絵馬の奉納を始め、本格的に絵師として活躍しはじめました。
師の森祖仙と同様に猿の画題を得意として、丁寧な筆致で微細な毛の質感を描き出し、写実的に描きだされた動物本来の愛らしさが現代でも魅力的に映ります。
奉納された絵馬にも猿をはじめ鹿など動物が数多く見られ、文政4年に金毘羅宮に絵馬「鍾馗図」を納めたことを契機に伊予国外の寺社にも絵馬が収められました。
画塾で後進の指導にもあたり、京都に上りのちに江戸で活躍した絵師・沖冠岳(おき かんがく)も、雲渓から最初の絵の手ほどきを受けました。
雲渓は70歳頃から作品の落款とともに年齢を記しており、写真のお品物にも「八十二翁」とあり、文久元(1861)年に82歳で逝去した雲渓の最晩年の作品と分かります。
山本雲渓は画家として確かな腕を持ちながら、本業である町医師と庄屋という町役人の家に生まれた都合上、伊代松山を離れることがなかったため、作品の多くは愛媛県に由来する場所に納められています。
また時代も江戸時代と古いお品物になり、残っていた作品でも状態によっては美術品として出回らないものもあるため、中古美術市場でも探すのが難しい画家の一人と言えます。
今回お買取りしたお品物は、絵自体は古いお品物ですが比較的最近に表装をお直しされており、共箱も状態が良かったため高評価でのお買取りとなりました。
経年によるシミ等は見受けられますが、鶴と亀の縁起物の二幅セットは珍しいお品物です。
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