歌川芳虎の浮世絵・錦絵をお買取りいたします。【2020年買取・新着情報】

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新着情報

歌川芳虎の浮世絵・錦絵をお買取りいたします。

2020.7.1

歌川芳虎の浮世絵・錦絵をお買取りいたします。



写真のお品物は歌川芳虎の浮世絵版画、「太平記合戦之図」です。

歌川芳虎は浮世絵師として幕末から明治にかけて活躍しました。

歌川派三世代目にして三巨匠の一人とされる歌川国芳に師事し、若年から画才を発揮し活躍しながらも、気性の荒い人物と伝えられる歌川芳虎は、生没年や墓所も定かな記録が見つからず、全貌は謎に包まれています。



歌川派

浮世絵の名門である歌川派は江戸後期に歌川豊春を祖として生まれました。

歌川豊春は先進的な絵師で、蘭学から得た西洋の遠近法も取り入れながら、江戸の名所絵や美人画を製作しました。

門下生も多く、第二世代の歌川派には初代歌川豊国、歌川豊広らが居ます。

歌川派の中でもひと際名の知れた歌川広重は豊広の弟子であり、豊国・豊広の両門下からは腕の良い絵師が多数輩出されます。

第三世代にはそれぞれの分野で活躍した三巨匠が生まれ、歌川派は幕末にかけて浮世絵界の一大勢力となりました。

名所絵の歌川広重・役者絵の歌川国貞・武者絵の歌川国芳の3人は作風も志向も異なりながらも、合作「小倉擬百人一首」と「東海道五十三次」を残しています。

国貞から亀戸派、国芳から玄冶店(げんやだな)派が形成され、それぞれ歌川国周、月岡芳年とその弟子の水野年方が輩出されています。

水野年方からは大野静方・竹田敬方・鏑木清方が続き、歌川派のエッセンスは明治以降の日本画へも続いていきました。



歌川芳虎と武者絵

記録では11歳で歌川国芳の門下に入ったとされる歌川芳虎は、後に破門騒動となった際の1858年の手紙において入門20年とあることから、1828年頃の生年が推測されています。

歌川国芳の同門には、のちに狩野派へ再入門し大成した河鍋暁斎らが居り、画塾でも暴れる荒々しさが暁斎の描いた画塾風景に残されています。

門下生として修業中の10代の頃、すでに大作を描き上げる力量をもち、1842年に発表した「信州川中嶋大合戦」は、通常3枚セットである錦絵で5枚セットという異例でもあり、版元に求められた証文には保護者として歌川芳虎の実父が署名しています。

武者絵の第一人者となった歌川国芳と並び、歌川芳虎も武者絵で活躍しますが、これには世相が関係していました。

老中水野忠邦による天保の改革では、奢侈品とともに娯楽が制限されます。

浮世絵師たちも風紀を乱す作品を流布しない旨を署名させられ、これに対し歌川国芳らは表現の自由を求めて反発しながら、絵に寓意を込める批判的な姿勢を持ちました。

持ち前の気性と趣向に加えて、春画以前に美人画と役者絵も自由に描けない時期があったことから、武者絵に専念していった側面があると考えられます。


破門騒動と「御上洛東海道」大合作

20歳代で国芳一門の工房から独立した歌川芳虎は、歌川一門の名声も背負いながら自らの画才で人気を得ていきます。

しかし独立から5年程の時、突如師と激しく仲を違え自ら破門を叫ぶ騒動となりました。

歌川国芳は仕方なく破門とした旨を書状に残していますが、結局その後も歌川芳虎は名前の返上も絵師廃業もせず、従来通り活動を続けました。

歌川国芳は1861年に逝去してからは、歌川芳虎は当代1,2を争う絵師となり、1863年の徳川家茂の上洛に同行取材し名所絵とする大事業に参画します。

この「御上洛東海道」で歌川芳虎は全163枚のうち「神奈川」「箱根」「あべ川渡」「藤枝」「藤川」「宮」「坂の下」「御能拝見」など9枚を担当し、破門騒動後にも関わらず13人の絵師に加わったことからも人気の程が窺えます


 

横浜絵・開化絵と人気の最盛期

1853年に黒船によって来航したペリーの交渉で、200年の鎖国政策が終了すると、横浜を中心に外国人居留地が生まれます。

19世紀の西洋人の文化や異人種そのものが、当時の日本人には大変珍しく、常に今起きている新しい事を求める浮世絵師の多くが横浜に出かけ、西洋文化を浮世絵に描く「横浜絵」が生まれます。

すでに人気絵師となった歌川芳虎も1864年頃から横浜絵でさらに人気を得、さらに数年経ち文明開化の波が及んだ東京の新しい物を描く「開化絵」も手掛けます。

陸蒸気と呼ばれた蒸気機関車はまだ日本で実現する一歩手前であったものの、銅版画などで予め資料を得ていた歌川芳虎は、未来を見据えて東京を走る蒸気機関車も描きました。

1867年のパリ万博では「浮世絵画帳」に参加して江戸美人を描き、翌年の錦絵師人気番付で第二位となるなど、最盛期を迎えます。


晩年と戦争絵

人気絵師として幕末明治の動乱期をも謳歌していた歌川芳虎ですが、師・歌川国芳の13回忌で破門騒動が結実することとなります。

師を偲ぶ記念碑に一門の名を刻むところ、最古参でありながら芳虎だけを加えないことが一門総意で決定されました。

破門が明確となって以降は、それまで通りの活躍は難しいものとなり、門下には実子である永島春暁が居ながらも最終的に没年と墓所も定かな記録が消失することとなりました。

晩年の歌川芳虎は、1877年の西南戦争に因んだ作品から戦争絵へと進みます。

1882年頃から印刷技術が登場すると、版画を中心としていた浮世絵は終焉へ向かい、歌川芳虎の一連の西南戦争の戦争画によって、西郷隆盛は浮世絵で描かれた最後の英雄となりました。



歌川芳虎の浮世絵作品をお買取りいたします。

歌川国芳一門のなかでひと際荒く猛々しい人物であった歌川芳虎は、武者絵でとくに才覚を発揮しました。

今回のお品物「太平記合戦之図」も、武者の迫力や戦乱の描写が、浮世絵独特のリズム感で表現された良作となっています。

また歌川国芳譲りの風刺精神を発揮した作品も多く、1849年には徳川家康を風刺した錦絵「道外武者御代の若餅」では処罰を受けるほど物議を醸しました。

現在残されている歌川芳虎の作品は、他の浮世絵と同様に多くが版画となっています。

中古美術市場における歌川芳虎の作品で特に人気が高いのは、12枚続きの超大作である「東海道五十三次」、3枚続きの「信州川中嶋両将直戦ノ図」、などのほか武者絵・横浜絵・開化絵でも3枚続き、2枚続きが高値となりやすい傾向にあります。

歌川芳虎の作品のご売却時には、紙面のダメージの有無・版画の出来・サイズ(枚数)、などが重要なポイントとなります。

いわの美術では骨董品・美術品を中心にお買取りを行っており、浮世絵・版画も多数のお買取り実績がございます。

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