馬蹄銀(ばていぎん)は中国で20世紀前半まで用いられた、秤量貨幣の銀貨です。
中国では一般に銀錠(ぎんじょう)または元宝(Yuanbao)と呼ばれますが、馬の蹄に似た形から明治時代の日本で馬蹄銀の呼び名が誕生しました。
日本と同様に貿易によって銀錠がもたらされた欧州では、サイシ―(Sycee)の呼称がついています。
縁起物の意味合いもありお菓子や装飾品に模られるなど、中国古銭のなかでも人気の品物です。
銀錠は官製の鋳造所ではなく、伝統的な金融機関であった銭荘で自由鋳造され、貨幣というより銀のインゴットに近い特性を持ちました。
インゴットは金属を溶解した後、単純な形に鋳造した原料鋳塊のことで、貨幣価値の相対的変動に左右されない貴金属としての価値を持ちます。
前近代の中国では銅と銀が同時に流通する複本位制が長く続きました。
銀貨の定着し始めた宋代では、国内経済は銅貨が循環し、銀貨は遠隔地交易の高額決済で大商人が使用し、一般の貨幣価値尺度にあまり関与しませんでした。
銀錠として成立するのはモンゴル帝国で、金を滅亡させた元に引き継がれ中国に定着します。
引き続き銅貨と紙幣が用いられ、銀錠は国家間の対外取引・特権商人による管理貿易で使用されます。
明代にも一般庶民は銅銭を使用しますが、朝貢貿易によって銀が大量に流入・銅の不足が相まって民間にも銀が普及し、明代後期に一条鞭法・清代に地丁銀制が定められると、納税は銅貨を銀に換金し銀で行われるようになりました。
乾隆帝時代に最盛期を迎えた清朝は、産業革命で対外進出を強めアメリカ独立で大陸植民地を失った英国から対等な交易を迫られ、インドを挟む三角貿易に至ります。
1827年ごろを境に銀が流出過多に転ずると、清朝の国内経済がひっ迫し事実上の増税、反乱が起き政情不安が生じ、対外的にもアヘン戦争と日清戦争の連続で清朝は疲弊します。
それでも銀本位制は変わらず、当時の先進諸国が一斉に金本位制へ移行した19世紀において珍しいものでした。
1911年の中華民国建国後も銀本位制を採用していた中国は、第一次世界大戦から1920年代の列強各国の金本位制復帰のあおりで銀価格下落に巻き込まれインフレとなるなど世界経済の影響に晒されます。
尚且つ統一貨幣でなかった中国国内では貨幣価値の地域差が大きく、日本による満州の実効支配で有利に働く側面もありました。
1929年の世界大恐慌は銀価格の低下を引き起こし、当初は輸出増に寄与したものの翌年イギリスが金本位制を離脱すると中国にも深刻な影響がもたらされます。
1934年にはアメリカの銀買上げ政策で銀価格は高騰に転じ、好調であった上海経済も恐慌に陥り、状況改善には銀の国際変動に左右されない管理通貨制度の確立を余儀なくされます。
中央銀行の設立、秤量単位の銀両を廃止、銀本位通貨の単位を元に改めた廃両改元は布石となり、1935年に銀貨の流通停止と中国全国統一通貨である法幣を発行しました。
これはアメリカドルとイギリスポンドにリンクし事実上英米の経済支配下となり、中国独自の銀本位制の歴史は幕を閉じました。
銀錠は公用でありながら民の銀炉で鋳造されたため、形がまちまちです。
貨幣価値を伴う製造は1917年頃で終了し、それ以降は金運を担ぐ観賞用として作られました。
現在、古美術市場で流通する馬蹄銀の多くは後鋳品と言われますが、銀含有量が60%を超える1930年代ころのものは値打ちがあり、1970年代以降の鉛など合金メッキ製土産物とは区別されています。
馬蹄銀の形は餃子の元になったと言われるなど、中国では古銭としての価値以上に富と繁栄の縁起物として尊重され、中古市場でも人気の品となっています。
銀は一般に、鉄などのように錆びを生じることはありませんが、硫化によって黒ずむ場合があります。
銀錠をはじめとする銀貨もまた硫化による変色が起こる事があり、馬蹄銀も銀色より黒色に近くなったものが散見されます。
お手持ちの銀貨に黒ずみがありクリーニングをお考えの際は、同じ銀製でもシルバーアクセサリーとは要領が異なるので注意が必要です。
シルバークリーナーやクロスでの摩擦は銀貨表面に微細な傷をつくり、売却時に価値が下がる可能性があります。
いわの美術では古美術品・骨董品を幅広くお取り扱いしており、古銭のお買取り実績も豊富にございます。
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