鄭孝胥は中国のラストエンペラー 愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)の数少ない側近として頑なに尽くしました。
政治家でありながら書に才能があり、鄭孝胥による文字をロゴとして使用し続けている銀行もあります。
鄭 孝胥 | てい こうしょ |
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1860-1938年 | |
中国・清末の官僚 満州国の政治家 書家 儒学者 |
鄭孝胥は22歳の時に郷試(科挙の本試験)において首席を取るという、非常に優秀な人物です。
公共事業に従事し、総領事として日本にも滞在していたこともありますが、日清戦争(1894年)により帰国しています。
1921年にあの芥川龍之介が中国・上海を訪れた際、この時61歳であった鄭孝胥とその息子・鄭垂(ていすい)との交流を深めました。
芥川龍之介は鄭孝胥の印象を、悠々と清貧に徹していたようであったと述べています。
更に老人には似合わず血色が良く、眼は朗らかな光を帯び、胸を反らせた態度やジェスチャーを交えた様子は、息子の鄭垂よりも若々しく見えたそうです。
そして鄭孝胥は政治的には、当時の共和制国家・中華民国に絶望していました。
だからといって王政を行うには、誰か英雄が出現でもしない限り難しいが、その英雄でさえ国際的な利害関係が絡んでくると述べています。
それから3年後、鄭孝胥が愛新覚羅 溥儀の側近として総理内務府大臣に就任することとなり、波乱の道を歩むこととなります。
鄭孝胥は溥儀の師傳(教育係)、そして忠臣として尽くしました。
すでに溥儀は皇帝を退位して中国は共和制国家となっていましたが、更なるクーデターで紫禁城からも追放されます。
その際、鄭孝胥はイギリスやオランダに溥儀の保護を求めて奔走しますが拒否され、結局は日本軍の庇護下となりました。
7年後の満州事変(1931)により溥儀が日本軍と共に満州へ向かった時、忠実な道連れは鄭孝胥と息子の鄭垂のみだったそうです。
溥儀は満州国皇帝に祭り上げられ、鄭孝胥は満州国国務総理となり溥儀を全面的に助けますが、それは日本軍にとっては目障りでしかなく、3年後に失脚させられその後亡くなってしまいました。
鄭孝胥の失脚と同時期に息子の鄭垂が亡くなっていることから、2人共日本軍に暗殺されたとの説もあります。
鄭孝胥はどんなに重い役職に就こうとも、朝は暗いうちに起き出してお粥を自分で炊き、心静かに臨書し、夜9時には就寝することを日課としていました。
志が高く清廉な人格者であったので、日本にも多くの知人が存在し、今でも尊敬と敬意の念は続いています。
官営の出版会社であった商務印書館で「字源」の監修にあたるなど、優れた国学者、詩人、書家として知られています。
鄭孝胥が日本の領事館に勤めていた時は、日本の漢学者文人は自分たちなりに外国語を駆使して漢詩を作っていましたが、中国人にとっては時代遅れな上によく理解できない物でした。
そのような中、超一流の詩人・書家であった鄭孝胥の元には、その意見を仰ごうと来客が絶えなかったそうです。
よく知られている作品が、中国の銀行『交通銀行』のロゴ文字で、日本では東京日本橋に東京支店があります。
そんな鄭孝胥の書の作風は、本人の人格と重なるような古樸で飾り気がなくかつ独自の風格で万人に愛されました。
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