写真のお品物は、以前いわの美術でお買取いたしました平福百穂の日本画「山峡早春」です。
掛け軸として飾られる伝統的な日本画の形態をとり、付属の木箱には作者による作品題名の書付もあり、確かなお品物として好評価にてお買取となりました。
平福百穂(ひらふく ひゃくすい)は秋田蘭画の隆盛した秋田県角館町に生まれ、江戸時代末期から昭和初期にかけて故郷と東京で活躍し、とくに写生画において多くの名品を残しています。
こちらの作品では、南画風の古典的な山の中腹を霧が遮り、白い部分を効果的に配した構図に平福百穂の画面構成の妙が発揮されています。
早春の山と峡谷には萌黄色が映え、山頂から川辺にまで岩肌の荒々しさと緑の柔らかさが対をなし、山峡の勇壮な美しさを表した逸品と言えます。
1877年 秋田県角館町で生まれ、同じく画家の父・平福穂庵に13歳から絵を習うが同年急逝する。
1894年 上京し川端玉章に師事、丸山四条派を学び、東京美術学校へ進学。
1899年 東京美術学校を卒業し故郷へ戻る。
1900年 同門の結城素明が自然主義を提唱する无声(むせい)会を組織し、秋田から参加する。
1901年 再び上京し拠点を東京とする。
1915年 「朝露」
1916年 鏑木清方や松岡映丘らと金鈴社を結成、中国の南画・古典回帰へ向かう。
1917年 「豫譲(よじょう)」
1926年 「荒磯(ありそ)」
1928年 「玉柏」
1929年 「堅田の一休」
1929年 帝国美術学校の日本画科教授に就任
1932年 「小松山」
1933年 逝去
平福百穂について、こちらの記事に詳述しております。
平福百穂の生誕した秋田県角館町では、150年余り遡った江戸中期に、秋田蘭画と呼ばれる独自の写実的画派が生まれました。
200年以上続いた鎖国の間、朝鮮・琉球との外交関係のほか通商関係は中国とオランダのみとなり、西洋の科学・技術はオランダを介して伝えられ、蘭学と総称された中には西洋絵画の技法も含まれていました。
秋田蘭画は蘭学者の平賀源内が藩財政の立て直しのため1773年に招聘されたことを契機に興ります。
角館に滞在した平賀源内は、画家・小田野直武(おだのなおたけ)の画才に注目し、後に江戸に登った小田野直武に解体新書の挿絵を担当させました。
小田野直武が西洋の図像を手本に身に付けた遠近法や陰影法などの西洋画法は、江戸中期の日本で未だかつて無い斬新なものです。
また西洋画法と並んで秋田蘭画に影響を及ぼしたものに、中国の画家・沈南蘋 (しんなんぴん)による写実的な画風が挙げられます。
1730年代に来日した沈南蘋の画風は、緻密のなかに華麗な趣があり日本人に広く受け入れられ、南蘋派として小田野直武の滞在した江戸でも流行していました。
小田野直武はオランダと中国という東西2つのリアリズムを独自に融合した画風を確立し、これを角館に持ち帰り、秋田藩主であり絵を能くした佐竹曙山(さたけしょざん)、角館城代の佐竹義躬 (さたけよしみ)に伝えられ、秋田蘭画として一つの流派に至りました。
しかし小田野直武と佐竹曙山は30代で早世し、佐竹義躬の没後は秋田蘭画を継ぐ有力な画家は現れず、秋田蘭画は日本美術史上の特異な孤島となります。
平福百穂は写実を重んじる日本画家として活躍しながら、秋田蘭画の研究も行い、1930年に出版した「日本洋画曙光」で秋田蘭画を広く世に紹介し、再評価の機運が高まる契機となりました。
平福百穂の作品は、屏風絵などを除いて大部分が掛け軸として軸装されています。
現在の中古美術市場では以下の品物は高評価の可能性が高いお品物となります。
・シミ焼け等ダメージが少ない
・双幅
・書付のある桐箱入り
いわの美術では骨董品・美術品を中心にお買取しており、掛け軸・日本画を専門とする査定員が丁寧に拝見いたします。
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