楠部彌弌は、世間一般では産業に分類されていた陶磁器を芸術に格上げした近代陶芸の功績者です。
こちらの置物は温かみのある作品ですが、実は緻密に構成されコントロールされた上で生み出されています。
楠部彌弌は京都の粟田で14人兄弟の7番目に生まれています。
父親は元々画家でしたが子供が多く絵では食べていけなかったので、上絵付けを主とする製陶業と海外向けに磁器の輸出も行っていました。
楠部彌弌は小さな頃は画家になりたかったそうです。
父親は楠部彌弌を跡取りに考えていたようで、親の勧めで15歳(1912年)で京都市立陶磁器試験所特別科に入ります。
卒業後、父親は自分の所に迎え入れるつもりでしたが、楠部彌弌は皆で同じ物を作り続ける産業陶磁器や輸出用の派手な金彩磁器にも興味がありませんでした。
芸術として極めたいという強い意思があり、ついには父親も折れ、母親が借りてくれたアトリエで活動を始めます。
当時はごく一部を除き陶磁器制作は産業扱いされており、陶芸家の社会的地位は低く、芸術家ではなく量産品を作る職人のような認識でした。
高価な磁器もありましたが、中国の古い名窯や古陶磁をリスペクトする余り、忠実に再現されたコピー品が制作されています。
技巧や器用さは競われたものの、そこに創造性や個性はなく芸術ではありませんでした。
そんな状況の中、楠部彌弌は陶芸で芸術を表現したいと考えたのです。
楠部彌弌の陶芸は若い頃に新鋭の河合栄之助、河村喜太郎らと共に6人で結成した赤土会に大きな影響を受けています。
この頃はヨーロッパから広がった分離派の影響もあり、成熟した古い美術に対抗して様々な新しい美術が湧き上がっていた時代です。
赤土会は年2回発表の場を設けることを目標に掲げ、1920年(23歳)に大阪の百貨店で第1回展を行いました。
当時画期的な試みであった入場料を設定しており、東京での赤土会展示発表の資金源となります。
第2回の京都は、昔ながらの陶芸家たちから圧力と妨害を受け百貨店で行うことができず、図書館での開催でしたが大成功に終わりました。
翌年に念願の東京での展示を行い、『京都の窯業家五人からなる赤人同人』と大きな注目を浴びます。
赤人は徐々に人数が減り僅か3年で活動を終了しますが、古陶磁至上主義の風潮に風穴を開け、若い世代の陶芸家に多くの刺激を与えました。
多感な青年期に仲間と切磋琢磨し、大切にした個性の尊重と自我の強調の精神は楠部彌弌の芸術の礎です。
芸術家には『完全』を極めるタイプと『無限』を追求するタイプがいるという説がありますが、楠部彌弌は『完全』を求める完全主義者です。
楠部彌弌の対極にあるのは日本の陶器に多い『味』です。
土そのものの質感を生かしたり、窯変のように火の作用の偶然に感動するなどは、自然回帰の日本人の美意識ではないでしょうか。
楠部彌弌はそれに強く反発します。
自分が自然と思っていても、わざとらしく自然を装っている可能性を危惧していたからです。
構想を練り自身の明確な造形の意思を持って土と火の抵抗をコントロールし、自らの手で作り上げることに拘りました。
その完璧な創造の為には技術を磨くことが不可欠となり、中国や日本のあらゆる古陶磁の様式や技法を研究し身につけています。
白磁や青磁の磁器、そして染付、色絵、金彩、蝋抜(ばつろう)、釉裏紅(ゆうりこう)の技術など。
陶器では鈞窯、志野、三島、陶器の技術では鉄絵、天目釉、刷毛目、緑釉などを修得しています。
このことから楠部彌弌は様々な様式の作品がありますが、それぞれの様式を完全に自分の物にしている凄さと、一見で楠部彌弌と分かる程の個性と美しさは超人の技です。
楠部彌弌の独自の技術として挙げられるのは彩延です。
磁土に色を混ぜた彩土を絵のように本体に貼り付けることにより、絵が立体に浮き出し、厚みによる色のグラデーションやニュアンス表現が広がります。
実際には収縮率の関係で焼成の時に割れやすく、楠部彌弌が試行錯誤の末に、堆朱のように何度も彩土を重ねることで実現可能となりました。
最初に藍、緑、黒の彩土に成功し、初期はこの濃い色の作品です。
次第に淡く柔らかい色(ピンク、青、黄、うすい緑)の作品が多くなっています。
彩延の作品は非常に人気があり、いわの美術でも高価買取が出ることが多いお品物です。