斉白石 蝦(エビ)の掛軸中国のピカソとも呼ばれる斉白石が特に好んでいたエビを題材にした掛け軸です。 幼い頃から慣れ親しんだエビは、画家になってからも筆バケツの中で飼うなど愛着のある存在でした。 エビは大胆にデフォルメされてもなおリアルで、水墨画でありながらエビの体の透明感まで感じさせる、斉白石の独特の魅力が溢れる作品です。
|
斉白石は1964年、中国内乱の被害が広がる時代に生まれ、兄弟が多く10男の祖父が相続した土地が僅かであったことから、貧しい農家で育ちました。
祖父は斉白石をとても可愛がり、火鉢の灰に文字を書いて文字を教え、斉白石は7歳までに祖父が知っていた約300漢字を全て覚えてしまったので、家族は何とかお金を工面して書物と紙を購入し、外祖父が開校した塾に通うことになりました。
しかし凶作が仇となり1年も経たない内に通えなくなります。
家の手伝いをする毎日でしたが、病弱な斉白石に農業は無理があり、12歳の時に大工に弟子入りすることになりました。
大工の見習いをする内に彫刻などの細かい仕事もする小器作(家具職人)の存在を知り、3年の修行期間を経て19歳で独立します。
稼ぎはあったものの貧しく、妻も農作業に明け暮れる毎日でした。
20歳の時に借りた『芥子園画譜』(かいしえんがふ)に感動し、コピー機などない時代なので半年かけて1~3集の全てを精密に描き写し、これにより花鳥・山水を描く基本技術が備わりました。
それから花鳥・山水画を描き始めて評判が高まりますが、田舎では大した注文もなく、より良い収入を求めて肖像画家に弟子入りします。
肖像画家になってやっと収入が増え、家具職人の仕事を辞めることになり、絵画制作に専念することができるようになりました。
花鳥・山水の他に美人画が人気となった反面、元々は木匠であったことから差別され、落款は入れないで欲しいというリクエストも少なくなく、このような差別は長い間、斉白石が正当な評価を受けない妨げとなります。
34歳の時に篆刻を学び、それ以後は画よりも刻印の仕事のほうがメインとなっていたようです。
転機は1922年 斉白石が60歳の時、日本で日華聯合絵画展覧会が開かれ、数少ない理解者であった陳師曾の計らいにより数枚の山水花弁画を出品したことです。
当時の日本は岡倉天心やフェノロサによって形式的な文人画が否定された後の世代であり、中国画を純粋な芸術として評価することができました。
この展覧会で斉白石の画は絶賛され、中国価格の10倍の値段で売れ、東京在住のフランス人も感動しパリの展覧会の話も出ます。
日本人や外国人による注文が日に日に増して行き、画が売れるようになっても斉白石は余計な金稼ぎは行わず謙虚であったそうです。
65歳で国立芸術専門学校の中国画の講師に迎えられ、この頃から中国でも評価が高くなり、その後 木工出身者が教授になるという偉業を成し遂げます。
この時はまだ日本人との関係は良好で、1930年にはノグチ・イサムが来中し弟子入りし親睦を深めました。
しかし状況が急変したのは翌1931年69歳の時です。
満州事変により満州が日本に占領され、中国全土に戦禍が広がり日常が奪われ、疎開する人々と逆に増えていく日本人という環境で、当然 斉白石も日本人を憎むようになりました。
にも関わらず、日本人は悪びれもせず画を求めての訪問を繰り返したことから、斉白石は門戸を閉じ、飢えても敵には売らないという意思を貫き、貧しい生活は1945年の第二次世界大戦の終わりまで続きます。
斉白石は終戦の翌年から画や刻印の販売を再開し、個展では数年間描き貯めていた二百数十枚の画が完売しました。
喜んだのも束の間、爆発的なインフレにより、売上はほとんど価値のないものとなり落胆します。
1949年に中華人民共和国が成立し、主席の毛沢東は87歳の斉白石を画家の元老として迎え、手厚く持続的な待遇を与えました。
斉白石は蘇ったかのように意欲的に作品を制作し、91歳の時は1年間で600点以上の画を描いています。
93歳で東ドイツ芸術科学院会員に推薦(1955年)、翌年は世界平和理事会の国際金賞、94歳にして年間300点以上の画を制作し、翌1957年に惜しまれながら95歳で亡くなりました。
旧習である文人至上主義に風穴を開けた斉白石は、現在でも現代中国画の巨匠として高く評価されています。
斉白石の家は貧しく、紙や筆がなかったので子供の頃は地面に絵を描いて遊び、私塾に通った際は家族が節約して購入した勉強用の紙に絵を描いて怒られていたそうです。
故郷は田舎で自然に恵まれていたので、斉白石はいつも観察していた虫・水中生物・植物などの構造や習性を熟知しており、それらは後に画のモチーフとして多々登場することになります。
木工になった経験から民間芸術の知識を深め、20歳の時に芥子園画譜を写すことで得た花鳥・山水を描く技術を身に着けました。
そして肖像画家として精密な描写を研究し、写実の力が鍛えられます。
20代後半に文人画家の元で勉強を始め、詩文や山水画もそれぞれ専門家に教えを請い、更に書法や篆刻も独学し文人的な資質が養われ、自分の胸中を写す文人画も描けるようになりました。
結果として写実画と文人画の両方を効果的に織り交ぜた清新雄健・質朴秀麗な作風となります。
画家として売れるようになっても値段を吊り上げるようなことはせず、貧乏性で怠けることなく画を描き続けたことから作品数が多く、画題も実に様々です。
雄大な自然や風景などよりも、小さな生き物などの小さいモチーフを選ぶ傾向があります。
特に海老、蟹、鶏、蛙などの生き物をデフォルメして描くことを好み、他に草花、花鳥、昆虫、山水などを組み合わせた上でデフォルメと細密描写を混在させた作品も多く描きました。
斉白石の評価は現在は、日本よりも中国のほうが高いと言われています。
デジタル化が進む中国では、斉白石のエビ画の傑作が家族の許可を取った上でNFT化され、2021年の年末にオークションにかけられたことで話題となりました。
一般的に肉筆画のNFTに関しては偽物も多く出回っており、まだ法整備などを含め未発達で先の見えない分野ではありますが、中国画の肉筆画がNFT化された記念すべき最初の一枚であり、未だ衰えない斉白石の人気の高さが伺えます。
時代を超えた魅力があり、中国が誇る世界的に名高い中国画家です。
いわの美術では斉白石の作品を探しています。
コレクションの入れ替えなどでご売却をお考えの斉白石の作品をお持ちではないでしょうか?
斉白石の作品のご売却をお考えの場合は、いわの美術までご連絡下さい。
斉白石のほかにも、斉白石と同様に日本での人気が先行した呉昌碩、親睦を深めたノグチ・イサム、斉白石が晩年敬愛したと言われる明代の八大山人、石濤、徐渭、の作品もお買取りいたします。
まずは写真を送信することによりお手軽に無料査定を受けることができる、WEB無料査定又はLINE無料査定のご都合の良い方をご使用下さい。
ご不明な点などありましたら、お電話フリーダイヤル(0120-226-590)でも受け付けております。
ご売却はお客様のご納得の場合のみお受けしておりますので、初めてのお客様も安心してご活用下さいませ。
スタッフ一同、お客様からのご連絡を心よりお待ちいたしております。