九州の佐賀県で生産される磁器「古伊万里」「有田焼」そして「伊万里焼」。これら3種の磁器は、いずれも佐賀県の有田市周辺で作られている点が共通していますが、違いやそれぞれの特徴についてはよくご存じない方もいるかもしれません。
今回は、古伊万里、有田焼、伊万里焼の3つの磁器の細かな違いや各種の特徴をご紹介します。
「古伊万里」とは、江戸時代に焼かれた古い伊万里焼を指す呼び名です。
日本で初めて作られた磁器である古伊万里は、今から約400年前に、朝鮮半島から有田に招かれた磁器職人が作り始めたものであるといわれています。当時のものは焼成や染付の技術などにも素朴さがみられ、今もその粗削りな風合いが愛好家を魅了しています。
少し以前に古伊万里が骨董の世界で大ブームを呼んだことから、贋作が非常に多く出回っていることも特徴です。平たい皿などのゆがみ具合、自然に付いた小傷の具合や長年使用されたことによる光沢の少なさなどのポイントを押さえておけば、鑑定のプロでなくともある程度は見分けを付けやすくなるといわれています。
「有田焼」とは、佐賀県有田町とその周辺で生産される磁器を指します。有田焼という名称は、明治期以降に広まった呼び名です。
その発展の歴史には、オランダの東インド会社が推し進めた東洋貿易が大きく影響しています。もともと東洋貿易には、中国の景徳鎮(ケイトクチン)で作られた磁器が重用されていました。しかし、明王朝の滅亡に伴い中国での供給不安が起こったことから、東インド会社は日本の有田で作られていた磁器に注目しました。それ以来、「柿右衛門様式」など高い技術で作られた良質な磁器が欧州などに多く輸出されるようになり、有田焼は世界的に知られる名品となったのです。
その後、徳川幕府の鎖国政策などにより輸出品としての役割をいったん終えた後も、幕府の御用窯となった「鍋島藩窯」が高い技術で作った器が献上品として珍重され続けました。幕末にいったん衰退するかに思えた有田焼ですが、明治期には再度復興して今に至ります。鍋島藩窯が編み出した「鍋島」という様式は、現在の有田焼においても継承されている技術として知られます。
「伊万里焼」は、佐賀県有田町を中心とする磁器(波佐見焼や三川内焼など)の総称です。そのため、伊万里焼は有田焼のことを指すともいえます。
17世紀初頭に発祥したとされる有田焼ですが、当時、有田を中心とした地域の他のやきものも伊万里港から出荷されており、それらはすべてまとめて「伊万里焼」と呼ばれていたと伝わっています。
後に、磁器は積出港の名称ではなく産地で呼ばれるようになったため、伊万里焼は「有田焼」「波佐見焼」「三川内焼」などの名称で分けて認識されるようになりました。
現在では、前述した通り伊万里焼は有田町を中心とした地域の磁器の総称とされますが、伊万里焼と有田焼を混同する方も多いことから、単に「有田焼」と呼ばず「伊万里・有田焼」といった名称が用いられる場合もあります。
有田焼にはその歴史の中で生み出されてきた、「初期色絵様式」「柿右衛門(かきえもん)様式」「鍋島様式」「金襴手(きんらんで)様式」という4つの様式があり、それぞれに特徴があります。
「五彩手(ごさいで)」と呼ばれる、赤・青・黄・緑・紫の5色を用いた絵付や、「青手(あおで)」と呼ばれる、青・黄・緑・紫の4色を用いて器を埋める絵付が見られます。
乳白色の素地(濁手/にごしで)に、余白をたっぷりと残しつつ繊細な絵付を施すのが特徴です。特に、赤系の色が際立つのも柿右衛門様式の特徴の1つとされます。
幕府献上品として採算度外視で作られた極彩色の染色技術や、高台に「櫛高台(くしこうだい)」と呼ばれる縦縞模様が見られるのが特徴です。
赤や金の絵具がふんだんに使われ、柿右衛門様式に見られるような余白は少なく、器いっぱいに色絵が描かれた豪華絢爛な絵付が特徴です。
今回は、「古伊万里」「有田焼」「伊万里焼」の違いや、それぞれの特徴についてご紹介しました。その美しさや、時代に翻弄された歴史的なドラマ性に、骨董的価値以上の魅力を感じるという愛好家も多い、古伊万里や、有田焼をはじめとした伊万里焼。時代ごとに進化し移り変わっていったさまざまな技術様式などを知れば知るほど奥の深さが感じられる、骨董初心者にもおすすめの磁器です。
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