奥原晴湖 掛軸 |
幕末から明治に大流行した南画家の中でも華々しく活躍した奥原晴湖による対幅の掛軸をお買取りいたしました。 力強い構成ながら細密に描き込まれ、細部まで美しい独特の表現は圧巻です。 作品には必ず自らの詩を添えており、その世界観は昔も今も高い支持を受けています。 |
江戸末期に古河藩重臣の池田家に生まれた晴湖は、地元で学問や絵の勉強をしていましたが、江戸で南画のさらなる高みを目指すことにします。
しかし女子が単身で古河藩から転出することができなかった時代であったので、母方の親戚に当たる関宿藩の奥原家に養女入りする形で江戸に出ました。
中国清代の画家 鄭板橋、費晴湖を模範として独学し、男勝りの豪快な水墨画は南画の代表格として人気となります。
さらに木戸孝允、山内容堂らの画会を通して政界の名士や知識人との人脈を広げました。
明治3年(1870年)『春陽家塾』を開業し、南画ブームも手伝って全盛期には300人超の門人がいたとされています。
翌年には皇后陛下の御前で筆をふるうなど、目覚ましい活躍を続けました。
しかし明治15年(1882年)、東京芸術大学の創設者であり、近代日本画の育成に尽力したフェノロサが日本画を高く評価する一方で南画(文人画)を全否定します。
その結果南画の人気は没落し、同年に春陽家塾は閉塾に追い込まれました。
ですが、それでも奥原晴湖は活動を続け、当時流行していた洋画の影響を受け写実的な描写にも挑戦しています。
明治24年(1891年)に隠棲してからは作風を一新し、近代南画風の綿密な描写をするようになり、美しい風景を色彩豊かに描き晩年まで多くの傑作を残しました。
今回お買取りした双幅の掛軸も、この時期の作品と推定されます。
このように状態が良く出来の良い作品は高価買取となりますので、お持ちの方はいわの美術までお問い合わせ下さい。
南画は中国・明の時代の絵画である南宗画(なんしゅうが)に由来しています。
南宗画はなだらかな地形と温暖な気候風土が表現され、対して北宗画は険しい天候と地形が特徴です。
日本の画家は主に南宗画を習ったことから略して南画と呼ばれたそうです。
中国絵画の模写をして中国風の山水画を学び、お手本の中には中国の知識階級が描いた文人画も多く含まれています。
中国の文人画は、絵の技法ではなく製作者の人格や精神が重視されました。
日本で制作された文人画は中国の文人画を真似した物であり、知識階級ではなく画家が描いた絵なので少し意味合いが異なります。
それでも中国文人に憧れ心酔した日本画家が描いた文人画は、江戸末期から明治にかけて大衆の教養として広く親しまれました。
当時活躍した南画家には奥原晴湖の他、与謝蕪村、池大雅、浦上玉堂、谷文晁、田能村竹田が挙げられ、現在の中古市場でも高い人気です。
そしてフェノロサの南画排除運動により南画の人気が失墜した後も、奥原晴湖を始め、富岡鉄斎、小川芋銭、冨田溪仙、小杉放庵、松林桂月などが近代南画の表現で素晴らしい作品を残しています。
ご売却をお考えの南画をお持ちの場合は、いわの美術までご相談下さい。
いわの美術では奥原晴湖の作品を買取強化中です。
奥原晴湖は主に掛軸を制作しています。
掛軸は収納がコンパクトであることから現代でも魅力が再認識されており、その反面小ささから存在を忘れられることも多いので、もしかするとご実家の倉庫の片隅に眠っているかもしれません。
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