十一代酒井田柿右衛門の長男として1878年に生まれ、本名は正次と言います。
十一代酒井田柿右衛門の指導のもと代々伝わる伝統的な技術を学び、1917年、酒井田柿右衛門が39歳の時、父親である十一代酒井田柿右衛門が亡くなった事に伴い十二代目を襲名しました。
十二代の襲名から2年後の1919年、とある実業家と「柿右衛門焼合資会社」を起業し、その会社に酒井田家で使っていた「角福」という銘を譲ります。
ですが、「柿右衛門焼合資会社」を設立してから9年後の1928年に会社の方針が自身の考えに合わなかった為退職し、「角福」銘も「柿右衛門焼合資会社」に残されたままになってしまいました。その為、柿右衛門家は新たに「柿右衛門作」という銘を作ります。
その後、十二代酒井田柿右衛門と長男で十三代目の酒井田柿右衛門と共に江戸中期に製作が中断され途絶えていた濁手素地の復興に着手し、十二代酒井田柿右衛門が75歳の時に濁手素地の製作が成功しました。
以降数多くの作品を作り上げ、76歳で佐賀県重要無形文化財に認定され、翌年にはブラッセル万国博覧会でグランプリを受賞、その後84歳で勲四等瑞宝章を受章します。
十二代酒井田柿右衛門は、頑固で職人気質が高かった故に作品の研究と製作の熱意を常に絶やしませんでした。
その為、十二代酒井田柿右衛門が作る作品は、努力の結晶として素晴らしいお品物が数多く残されており、多くのから高い評価を得ています。
濁手は、柿右衛門作品の中で乳白色の素地の事を指し、1670年に酒井田家から誕生しました。
誕生後は、乳白色の美しい色彩がたちまち人気となり、ヨーロッパではミルキー・ホワイトと呼ばれ、爆発的な人気となりました。
また、柿右衛門様式で使われる赤絵と合わせると、どの色よりも調和し最高の作品に仕上がります。
ですが、江戸中期になると赤と金を使用した豪華な「金襴手様式」が主流となり、濁手の輸出が減っていったのです。
さらに、明・清時代の王朝交代で内乱にて陶磁器製作が減っていた中国が落ち着きを取り戻し、ヨーロッパへの景徳鎮の再輸出した事に加え、江戸幕府の貿易制限などが起こり濁手の生産が一時的に停止しました。
その後も何度か復興に挑戦しましたが、製作の困難さから再度濁手が作られる事はありませんでした。
その後、何十年という月日を経て十二代と十三代酒井田柿右衛門が眠っていた濁手の復興に着手します。
酒井田家に代々伝わる「土合帳(つちあわせちょう)」と呼ばれる古文書に書かれている濁手を作る工程や素材などの記述を元に製作に取り組み、試行錯誤の末1953年濁手の復興に成功しました。
弊社いわの美術では、十二代酒井田柿右衛門の作品をお買取り強化しております。
酒井田家は、現在十五代目が伝統を引き継いで作品制作に励んでおります。
その他にも、初代から十四代まで様々な作品が作られてきましたが、中古市場では人気の作品などがございます。
何代目の品物か、作品の出来、デザイン、有名な茶人の銘が入っているかにもよって評価が変わってきますので、お品物のお写真など頂けましたらお調べが可能です。
弊社いわの美術では、十二代酒井田柿右衛門の作品以外でも様々な作品をお買取りしております。
絵画やお茶道具、書道具、お酒、古書・中国美術・仏具・印材・洋食器・ジュエリーなどもお買取りしておりますが、その中でも中国のお品物をお買取り強化しております。
高価買取可能な中国のお品物
中国金貨・堆朱作品・刀・古文書・巻物・掛軸
・茅台酒・古伊万里・古九谷・香炉・鉄瓶・仏像・景徳鎮・古銭・田黄石・寿山石・筆筒・琵琶などなど
遺品整理・生前整理・お引越し・コレクションの整理・家の解体・蔵の解体などでご売却お考えのお品物がございましたら、お気軽にいわの美術までご相談下さい。